2016/12/31

アフリカ③ケニア ウガンダ鉄道  絶滅寸前!ブリティッシュアフリカの4連オープンループ


  • 大英帝国の本気を見た

今回はアフリカ大陸のど真ん中にあるウガンダ鉄道のループ線を4つまとめてご紹介します。

ウガンダ鉄道はイギリスがアフリカ植民地経営の柱として建設した鉄道です。ケニアの港町モンバサからケニア領内を通ってウガンダへ向かうメーターゲージの路線です。

ウガンダ鉄道といいつつ、全長の4分の3くらいはケニア国内を走ります。「ウガンダへ向かう鉄道」と考えると分かりやすいでしょうか。

このウガンダ鉄道という名称はケニア・ウガンダの両国がイギリスの植民地時代に「英領東アフリカ」とまとめて呼ばれていた名残です。インド洋に面する港町モンバサからウガンダの西の端、コンゴとの国境近くのカセッセまでその全長は1800kmにもなる長大路線です。

独立後も「東アフリカ鉄道」と一体的に運営されていたあと、国境線を境にケニア国鉄とウガンダ国鉄に分割されました。現在は民営化されてリフトバレー鉄道という南アフリカ資本の民間会社が再び両国鉄をまとめて傘下においていますが、運営はケニアとウガンダのそれぞれの国内で別個になっているようです。

ウガンダ鉄道にはケニア国内のモンバサを出てすぐのところに1ヵ所と中央部に2か所、ウガンダ国内のコンゴ国境近くに1ヵ所の計4か所ループ線があります。連続ループ線というにはいささか距離が離れすぎではありますが、東から順にご紹介します。


  • 余命あとわずか

まずは、モンバサの北20kmのマゼラススパイラル。

マゼラススパイラル。 写真で見ると高低差は10mぐらいですね
ウガンダ鉄道に関しては圧倒的情報量のこちらのサイトからお借りしました。

基本的にこの区間はナイロビに向かって一直線の上り坂です。モンバサの近くの海岸段丘をループ線で上っているステップ地帯の中にある4分の3回転ループです。

曲線半径は175m、高低差ははっきり分かりませんでしたが、写真で見る限り10mぐらいですので勾配は12‰ぐらいでしょうか。

1896年とかなり早い段階で開通しています。

この区間は2016年現在も夜行の旅客列車が走っています。週3往復あったのが最近減便されて週2往復になっています。

数時間単位の遅れや突発運休は日常茶飯事らしいのですが、乗っている限りは比較的快適だそうです。明るい時間帯に確実に通るならナイロビ発モンバサ行に乗るのがよさそうです。

なお、この区間、現在中国資本による標準軌新線が建設中で、Googleの衛星写真にもループ線の左下に工事区間が映っています。

予定通りならば2017年6月に開業とのことです。新線が開業するとおそらくループ線は廃止でしょう。WEB上のニュース写真を見る限りは、とても2017年中に開業できそうには見えませんが、いずれにしても遠くない将来廃止になりそうです。※2017年に開通したそうです。→こちら マダラカ・エクスプレスという新線を走る特急がナイロビ~モンバサ間を1日2往復走り出しています。→こちら 旧線はナイロビ市内の一部区間を除いて廃止になったようです。


このナイロビ・モンバサ間の列車は鉄道旅行愛好家には割とメジャーで、WEB上に乗車記が比較的たくさん見つかります。




  • ホワイトハイランドを駆け上がれ

続いてモンバサから800kmほど、ナイロビから300kmほど北上したところにある2つのループ線を見てみましょう。

個人的に激萌えしたナクル駅の腕木信号機群
こちらからお借りしました
ウガンダ鉄道はナイロビから180km北にあるナクルで左右に分岐します。 左に向かうのは1901年に開通した旧線のキスム線で、当初はキスム港からビクトリア湖上の鉄道連絡船でウガンダ方面へ輸送していました。

ところが当時フランスとアフリカ中央部の領土獲得競争を繰り広げていた大英帝国はこれで満足せず、ウガンダまでの鉄道直結を狙って新線を建設します。これがナクルから右に分岐するウガンダ直通線で、1931年に開通しています。

モンバサからナイロビまで500kmはほぼ一直線の上り坂です。
ナクルから先の峠がウガンダ鉄道の最高所です。

この右に分岐するウガンダ直通線上に設置されたのが、マクタノ・スパイラルとイクエイター・スパイラルです。イクエイタ―・スパイラルEquator Spiralはその名の通り赤道直下にあります。

二つのループ線の間隔は約15kmほどで近接しているのですが、マクタノ・スパイラルは標高2500m、イクエイタ・スパイラルは標高2700mです。

15kmで200mの標高差を登っており、最急勾配は20‰だそうです。この時代のメーターゲージの蒸気機関車にはかなり厳しい連続勾配だったことでしょう。

詳細不明ですが、ループ線付近の車窓らしいです
航空写真で見るとこの二つのループ線は畑の中にあります。アフリカのど真ん中に畑というとちょっと不思議な感じがしますが、標高のおかげで気温がちょうどよく、雨量も豊富なので農耕に適しているそうです。イギリス植民地時代に白人が独占したためホワイトハイランドという別名があります。写真で見ると東南アジアっぽい感じがしますね。

この区間は2000年代の中ごろまで週に1往復程度旅客列車が走っていたそうですが、現在は休止中です。おそらく貨物列車も走っていないものと思われます。

ループ線の他にも細かいヘアピンターンが続いており、何度もターンを繰り返しながら高度を上げて行くハイライト区間だったようです。残念ながら復活の見込みは少なそうです。



  • 廃止したとは言っていない
さて、最後は国境を越えてウガンダの首都カンパラと西の端カセッセを結ぶウガンダ鉄道西部線Uganda Railway Western Extension にあるループ線です。モンバサからは1800km離れたウガンダ鉄道路線の最西端、この先はすぐ旧フランス領のコンゴとの国境です。

開通直後のループ線
Googleの衛星写真と比べると格段に路盤良好です
こちらのサイトからお借りしました。
ここは1956年開通と戦後生まれの随分新しいループ線ですが、1998年には閉鎖されています。

閉鎖というのは微妙な表現ですが、メンテナンスが悪くて列車が走れない状態で放置されたというのが実態のようです。特に首都カンパラ付近では衛星写真にレールが映らないぐらいですので路盤状況は相当悪そうです。

西部線は標高1200mのカンパラからほとんど高低差のない台地を走りますが、最後のカセッセの町を含むジョージ湖からエドワード湖にかけてはアフリカ大地溝帯の一部になっていて、標高1000mと周囲から大きく窪んだ地形となっています。

ここはそのくぼみに向けて坂を下るループ線です。 曲線半径は175m、勾配は12‰です。世界有数の人里離れたループ線であると同時に、世界有数の綺麗な形のオープンループだと思うのですがいかがでしょうか。しかもフルオープンで1回転半しているのがなかなかの高ポイントだと思います。

この西部線はカセッセ近郊の鉱山で採れる銅やコバルトの運搬用に建設されたものです。英領時代は旅客列車がカンパラ・カセッセ間300kmを12時間かけて走っていましたが、独立後のウガンダ国鉄時代は旅客営業の実績はないのではないかと思います。ここは相当短命なループ線ですね。旅客営業の終了時期がはっきり分かりませんが、短命さでサンマリノ鉄道をしのぎそうです。さすがにここのループ線を列車で通ったことのある日本人はいないでしょう。

現在、ウガンダの都市間交通は自動車中心になっており、ここに列車が復活する可能性は残念ながらないでしょう。あるとしたらマニア向けの観光列車ですが、この極限的なアクセスの悪さを考えると絶望的に難しそうです。




  • イギリス流ループ線の共通点とは

以上、ウガンダ鉄道の4カ所のループ線をご紹介しました。どれも非常に魅力的ですが、悲しいかな絶滅寸前です。

実は4つとも丘を巻いて高度を上げるオープンループだという共通点があります。ループの輪の中央に丘があるため、オープンループの割には比較的眺望に恵まれていません。

また、4カ所とも曲線半径175mのカーブという点も共通です。 僻地に建設される鉄道では難しい施工を避けるために可能な限り同じ半径のカーブを使いますが、このウガンダ鉄道ではそれが特に顕著で、あちこちで半径175mカーブばかり出てきます。写真で見る限り緩和曲線が入っているかどうかも怪しいです。まったく緩和曲線なしでは列車が走れませんので、少しは入っているとは思うのですが。

同じアフリカ植民地鉄道でもイタリアの作ったエリトリア鉄道は律儀に緩和曲線を使ってるのが衛星写真からも分かります。これはお国柄なんでしょうかね。なお、この半径175mカーブというのは最小曲線半径のイギリスの規格で、イギリス由来の鉄道路線で良く出てきます。

次回はヨーロッパからブルガリアの連続ループ線をご紹介します。

年末ぎりぎりの更新になってしまいましたが、来年も「ループ線マニア」をよろしくお願いいたします。


2016/12/16

欧州⑳レッチュベルグ鉄道&シンプロントンネル線 裏街道と呼ばないで


  • フランス語圏の町を結ぶ

今回はスイスとイタリアを結ぶアルプス横断鉄道の一つ、レッチュベルグ鉄道とシンプロントンネル線のループ線をご紹介します。

レッチュベルグ鉄道Lötschbergbahnはゴッダルドバーンの西側約60㎞フランス寄りのところでアルプス山脈を南北に横断する私鉄の路線です。スイス国鉄のゴッタルドバーンと違って、こちらは民間会社の路線ですのでレッチュベルグ鉄道と訳してみました。

民間会社といってもスイス連邦政府が約半分、ベルン州が約4分の1の株式を保有する日本で言えば第3セクター路線です。しかもスイス国鉄の列車がばんばん乗り入れているので、実体は国鉄線とあまり違いはありません。

ゴッタルドバーンの開通で鉄道の便利さが知られると、スイス西部のローザンヌやジュネーブからイタリア方面へも鉄道がほしいという要望が起こり、1880年代の終盤にジュネーブからローザンヌ、モントルー、ブリークを通ってシンプロン峠からイタリアに至るアルプス横断ルートが着工されます。

このルートは地名からも分かるように主にフランス語圏で、昔ナポレオンが開いた街道と言われています。いわばフランス系スイス人のためのアルプス横断ルートでした。ただし、不思議なことにローヌ谷の最奥部ブリークの町周辺だけはドイツ語圏だそうです。

ジュネーブからレマン湖畔を通って、ローヌ川のU字谷に沿って順調に工事が進み、1874年にブリークまで開通します。このローヌ川に沿って走るのがスイス国鉄のシンプロンバーンです。

さらに、ブリークから国境を越えてイタリアのドモドッソラへ向かう全長19㎞のシンプロントンネルが1906年に開通します。

ゴッタルドトンネルがスイス領内で完結していたのに対して、シンプロントンネルはスイスとイタリアの国境を越える国際トンネルです。

シンプロントンネルは上越新幹線の大清水トンネルが開通する1982年まで長らくの間、世界最長鉄道トンネルのタイトルホルダーでした。そういえば私も幼少の頃の鉄道大百科系の本でよくその名前が紹介されてたのを覚えています。ぶっちゃけ年がばれます。


  • これはヤバい

ところが、こうしてめでたく開通した2本目のアルプス横断ルートに危機感を覚えたのがスイス連邦の首都だったベルン周辺の地域です。東のチューリヒやバーゼルがゴッダルドバーンで、西のジュネーブやローザンヌがシンプロントンネルでアルプス横断ルートにそれぞれ直結するとなると、相対的に都市の重要度が低下しかねません。

レッチュベルガーの車両は黄緑色で山手線ぽいです
そこでベルン周辺の地方公共団体や有力企業がお金を出し合って独自のアルプス横断ルートを建設することとし、レッチュベルグ鉄道会社が設立されました。ベルンーレッチュベルグーシンプロンの頭文字を取ってBLS鉄道と名付けられます。

1913年にベルンからブリークまでの路線がBLS鉄道によって開通します。途中延長14㎞のレッチュベルグトンネルの掘削と、レッチュベルグトンネルからブリークまでのローヌ谷北岸の絶壁沿いは、地すべりや雪崩が多発する相当な難工事でした。

シンプロントンネルは以上のような経緯からジュネーブへ向かうシンプロンバーンと、ベルンへ向かうBLS鉄道線の二本のアプローチ線を持っていることになります。建設時の経緯から、シンプロントンネルの南側ドモドッソラまではイタリア国内ですが、国際特急以外は主にスイスの列車が走っています。

  • 変形ダブルヘアピンと完全トンネルループ

BLS線のループ線はレッチュベルグトンネルの北側とシンプロントンネルの南側に一つずつあります。

北側はダブルヘアピンの一部で線路が交差する珍しい形で、周辺の地名からミットホルツループと呼ばれています。BLS鉄道によって1913年の開業です。


南側はシンプロントンネルを出た谷沿いにあるヴァルツォスパイラルで、ループ線のほとんどがトンネル内です。こちらは前述のとおりシンプロントンネルと同時にスイス国鉄によって一足早く1906年に開通しています。

北はループで南はスパイラルと呼び方が違うのが気になりますが、南はイタリア語のElicoidale di Varzoを訳しているからだと思います。また、ゴッタルドバーンにならって、北側をLötschberg North Ramp、南側をSimplon South Rampという呼び方もするようです。

どちらも勾配27‰、曲線半径200mで、幹線としてはやや物足らないもののぎりぎり許せるスペックですが、開通時から電化複線だったのはさすがです。

ゴッタルドバーンのページにも書きましたが、山岳路線での複線のループ線は世界中でゴッタルドバーンとここだけです。(山岳路線以外ではレンツブルグハイブリッジナポリ地下鉄が複線ループですね。)

ループ線の前後は眺望のいい区間を走りますが、残念ながらループ線自体の眺望はトンネルに阻まれてあまり期待できないようです。


  • レッチュベルガーで連続通過を狙え

実は、2007年にレッチュベルグベーストンネルという全長34㎞の長大バイパストンネルが開通しており、スイスイタリア間の国際特急は全部北側のミットホルツループを通らなくなっています。

大自然の中を走るレッチュベルガ―。
色は似ていますが、山手線とは全く違った雰囲気です
しかし、建設資金不足でレッチュベルグベーストンネルの全長の約半分が単線になってしまい、線路容量確保のために旧線がほとんどそのまま残されました。資金はゴッタルドベーストンネルの建設に回されたそうです。

今のところレッチュベルガーという愛称のついた山手線によく似た色のローカル列車が毎時1往復(1日19往復)、ミットホルツループ線を走っています。そのうちの4往復がシンプロントンネルを越えてドモドッソラまでの直通便で、この直通便に乗るとミットホルツループとヴァルツォスパイラルを連続通過することができます。

ただし、直通便4往復のうち、1往復は深夜便、2往復はハイシーズン以外はブリーク止まりです。普段の日の直通列車は1日1往復ですが、ループ線マニアとしては狙い乗りして二つのループ線を同じ列車で連続で体験したいところです。

ミットホルツ駅を通過する客車列車
これは臨時列車でしょうか
なお、南側のヴァルツォスパイラルはミラノからスイス方面への特急列車が毎時1往復走っているので、同一列車での連続体験にこだわらなければ乗車機会は極めて豊富です。また、どちらのループ線も貨物列車が旅客列車の倍近くの頻度で走っているそうです。

BLS線は開通の経緯からどうしてもゴッタルドバーンの裏街道的な雰囲気が漂っています。

レッチュベルグベーストンネルが資金不足で単線になったり、チザルピーノという高速振子電車特急が故障多発で廃止されたり、派手なゴッタルドバーンループ線群から比べると撮影地に恵まれなかったり。日本での知名度も今一つなところがあります。

そんなちょっとかわいそうなレッチュベルグのループ線ですが、ゴッタルドバーンと比べなければ列車の通過本数などは世界トップクラスです。ループ線マニアとしてはチェックしておきたいですね。






次回はアフリカの連続ループ線をご紹介します。

2016/11/30

欧州⑲イタリア・ノルチャ線 伝説のイタリアのゴッタルド

  • 伝説の大規模ループ線

今回はイタリア中部、ローマの東北にあったスポレト・ノルチャ線の連続ループ線をご紹介します。

このループ線は世界的に見ても相当大規模なものでした。現存していれば間違いなく「大規模ループ線」のカテゴリに入れていました。

スポレト・ノルチャ線はローマの東北、ウンブリア州のスポレトからイタリア半島の中央にそびえるアペニン山脈の中腹の町ノルチャを結んでいた全長50kmのイタリアンナローゲージの民有鉄道でした。第一次世界大戦後の1926年に開通し、1968年に廃止されています。ちょうど戦間のイタリア好況期に開通し、モータリゼーションの進展とともに廃止された典型的なイタリアの地方鉄道でした。


もともとこの鉄道はアペニン山脈を越えたアドリア海側の町、アスコリピチェーノとを結ぶことを念頭に置いていたようです。ところがアペニン山脈の地形は想像以上に険しく、当初検討していたリエーティ~アントロドーコ~グリシャノ~アスコリピチェーノ間の路線を断念し、スポレト~ノルチャ~グリシャノ~アスコリピチェーノのルートで着工しました。

完成後はサブアルプス鉄道株式会社というスイス・イタリア間に路線を持つ民間会社が、ぽつんと離れ小島的に所有・運営していました。何とも不思議な運営形態の民間鉄道です。スイスのレッチュブルグ線の建設を担当したスイス人技師アーウィン・トーマンErwin Thomanという人が建設した関係でしょうか。

結局第二次大戦の敗戦により、アペニン山脈横断の夢は果たされないまま、分不相応な大規模な構造物を持つローカル盲腸線として戦後を走ることになります。


  • 古今東西廃線跡の再利用と言えば

 ところがスポレートは人口2万、ノルチャは人口5千人の小さな町です。山中の小村に向かう人々ではどう考えても鉄道を経営していくには需要不足でした。

1965年にサブアルプス鉄道株式会社は民間運営を諦め、スポレート運輸企業協会という半官半民のよく分からない協会に運営を譲渡しますが、あっさり3年で廃線となってしまいました。

しかし、廃線直後から「ウンブリア地方のゴッダルド」とも呼ばれたその雄大な車窓風景を惜しむ声が上がり、観光鉄道として存続を模索する話が出ます。

とりあえず自転車道として保存されましたが、これが予想外の人気となり、イタリアで有名なMTBコースとして知られるようになります。

今ではMTBの大会なども開かれています。そのおかげでノルチャ駅付近の自動車道路に転用された部分以外では構造物はほぼ完ぺきな形で残されています。

また、ループ線部分を含む20㎞程度を観光鉄道として再生する計画もたびたび出ていますが、今度はMTB愛好家から観光鉄道化反対の声が上がるというなかなかカオスな状態になったりもしています。


  • 帝王にも負けないインパクト


カプラレッチァ陸橋と大掘割
さて、ノルチャ線のループ線は、カプラレッチァ・トンネルを挟んで峠の西側に1つ、東側に2つループがある双子ループでした。

第1のループは、峠の西、スポレト側の標高550mの丘陵地帯にあるカプラレッチァ陸橋で自線をまたぐフルオープンループです。

尾根筋を使って高さを稼いでいるため、少し変わった形状をしていました。

このループ部分の約半分は大規模な掘割になっており、さすがにこの部分は崩落の危険が大きいとして現在通行止めになっています。


ここで80mほど高さを稼いで標高約630mにあるイタリア狭軌線最長だった1936mのカプラレッチァ・トンネルに入っていました。

トンネルの東側は断崖絶壁で、標高350mのネラ川沿いまで高低差280mを7㎞で駆け下りていました。ロングダートでダウンヒル、適度なカーブがあってトンネルと眺めの良い橋がある、とまさにMTBに打ってつけですね。

この東側の断崖がウンブリア・ゴッダルドと異名を取ったヘアピンターン5カ所のうち2カ所がループ線になっている大規模ループ区間です。曲線半径は最小80m、最急勾配は45‰と一般の粘着式鉄道としては限界に近いハードスペックでした。

確かに本家ゴッダルドバーンに一歩も引けを取らないド派手なループ線です。


  • ローカルゆえに廃止になり、ローカルゆえに愛される

ところがゴッタルドバーンに圧倒的に負けていたのが輸送力と輸送量でした。

冷静に見てみるとノリチャ線は極めて低規格で、開業時から電化されていたにも関わらず、スポレト・ノルチャ間の50㎞を2時間以上かかっていました。

需要が少なかったのはアペニン山脈を越えられなかったからだと書きましたが、本当に横断する気があったのか疑問が残ります。

少なくとも幹線鉄道としてイタリア東西横断を目指したものでなかったことは、ナローゲージである点や曲線半径・勾配などの線路規格を見る限り間違いなさそうです。

仮に山脈を越えて東西横断が実現していたとしても、このスペックではいずれモータリゼーションの波に飲まれていたのではないかと思います。その点では開業時から21世紀水準の高規格だったゴッダルド・バーンの足元にも及ばないでしょう。

とは言え、イタリアの美しい山並みを行く超大規模ループ線は記録よりも記憶に残る鉄道として、その痕跡は今でも人々に愛されています。私の最も行ってみたい廃線ループ区間の一つです。

なお、このノルチャ線沿線は昔から地震の多い地域で、つい先日2016年11月にも大きな地震があったそうです。ノルチャ線跡には調べた限り被害はなさそうですが、何かわかったらここに追記して行きたいと思います。




次回はこれまでにも話に出てきたレッチュベルグ線のループ線をご紹介します。






2016/11/22

中国⑨牡図線 見た目そっくりの連続ループ線

  • 在りし日の日満連絡北鮮ルート
今回は連続ループ線シリーズより中国東北部、牡図線の2つのループ線をご紹介します。

牡図線は中朝国境沿いの町、図們(トゥメン)~牡丹江(ムーダンジァン)間を中露国境の少し西側に南北に結ぶ路線で、1935年の開通です。開通時期から想像できるとおり、満州国鉄の建設した旧日本製の路線です。

所属は満州国鉄ですが、鉄道の運営は満鉄(南満州鉄道)が自社路線と一体的に運営していました。満鉄の自社路線は社線、満州国鉄線は国線と区分されていましたが、国線も建設・運営・保守を一括して満鉄に委託しており、満州国鉄に鉄道運営の実態はまったくなく、書類上の区分だけだったそうです。

満州鉄道の路線図
図の右端満ソ国境から二本目の南北の路線が牡図線です
この図では図佳線と表記されています
こちらからお借りしました →南満州鉄道資料室
この路線も日満連絡のために作られた路線です。東京~新潟~北朝鮮・羅津(ラジン)または清津(チョジン)~中国・図們~牡丹江~ハルビンのいわゆる北鮮ルートは、以前からあった釜山ルートや大連ルートよりも海上区間の距離が短かく、鉄道整備が進めば最短時間での日満連絡ルートになると期待されていました。

実際は大陸側の旅客列車が少なかったため終戦まで旅客ルートとしては釜山経由や大連経由よりもメジャーになることはありませんでした。一方貨物輸送では北朝鮮や満州の豊富な森林資源や鉱物資源輸送に活躍し、対ソ連国境線への軍用路線としても重要な役割を果たしました。

牡図線の建設は日本のゼネコン鹿島建設が請け負いましたが、当時の満州は匪賊が跋扈するまさに未開の大地、鉄道の建設よりも匪賊対策にお金がかかるという想像を絶する建設現場でした。トンネルを掘ってたら襲われて金目のものは根こそぎ取られ、最悪落命することもあったと言うから怖すぎです。

先達の苦労を偲ぶとともに、結果的には敗戦によって大陸から撤退することになったことを考えるとちょっと切なくなります。建設時の様子はこちらに詳しいです →鹿島建設HP「満州での工事と満州鹿島組」。文中に出てくる図寧線とは、工事区間が図們から牡丹江の少し南の寧安という町までだったことから付けられた牡図線の別称でしょう。中国語で検索してもヒットしてきませんので日本人だけが使った名称なのかもしれません。

なお、牡図線は牡丹江からさらに北に向かって建設が続き、1937年に佳木斯(ジャムス)まで延伸されました。図們から佳木斯までまとめて図佳線とも言います。現在では牡丹江を境に南北に運転系統が分断されていますが、どちらの名前も同じぐらい使われていて、どちらが正式かはよくわかりませんでした。

  • 少しの違いが大きな知名度の差に
さて、牡図線には図們から約40㎞の新興と約130㎞の老松嶺の2カ所にループ線があります。日本から見て手前の南側が新興ループ、奥の北側が老松嶺ループです。一見峠を挟む双子ループかと思いきや、実はどちらも牡丹江に向かって上り坂です。

老松嶺ループの北にある老松嶺トンネルが分水嶺になっており、トンネルの手前南側は図們江の水域、北側は1000㎞も北に河口があるアムール川水域です。

分水嶺はそれほど険しい山脈ではありませんが、河口までの距離の差がそのまま標高差になっており、峠の両側で200mほどの高低差があります。

地図で見ると二つのループ線は面白いぐらい形がそっくりなのですが、よく見ると老松嶺ループの方が輪の部分が少し大きいことが分かります。新興ループも老松嶺ループも曲線半径360m高低差約40mと同じスペックですが、老松嶺ループは直線を挟んで輪の部分を伸ばして勾配を緩和している様子が伺えます。

SL撮影で一世を風靡した新興ループ
羊肉様のサイト「中国大陸の蒸気機関車」からお借りしました
→こちら 
こちらのページによると、新興ループは16‰勾配、老松嶺ループは11.5‰勾配とのことです。

ここは1990年代の後半まで蒸気機関車が現役で走っており、南側の新興ループには日本から遠征して撮影に行かれた方も多かったようです。素晴らしい写真がWEB上で見つかります。ところが、なぜか老松嶺ループの方は写真がまるで見当たりません。

丘の上で見晴らしのよい新興ループに対して、林の中で見通しが効かず、駅からのアクセスも悪い老松嶺ループは、蒸気機関車の撮影に向かなかったのでしょうか。見た目がそっくりにもかかわらず、知名度的には随分な差がついているようです。

  • 旅客列車の運転状況は混乱中
現在、この二つのループ線には長春~牡丹江間の直通夜行急行と線内運転の普通列車がそれぞれ1往復ずつ、計2往復4本の旅客列車が走っています。

牡図線の紅葉は中国一美しいと言われるそうです
残念ながら適当な写真が見当たらないので
図們~長春間の長図線の写真で代用
時刻表上は比較的乗りやすそうなのですが、実はどの列車にも少しずつ難点があります。直通急行は確実に運転されていますが、下り牡丹江行は図們発がめちゃくちゃ早朝、上り長春行はループ線通過が日没後となっており、どちらも悪条件です。

一方、線内運転の普通列車は上下ともいい時間帯にループ線を通過するのですが、ここ数年、途中駅で打ち切りになったり全区間運休したりで運転状況が極端に不安定です。

たくさんある中国の列車時刻サイトでもサイトによってヒットしたりしなかったりで、本当に走っているのかよく分かりません。近年、長春~図們間とハルビン~牡丹江間の高速鉄道の建設が同時に進んでおり、その工事の影響でしょうか。

高速鉄道が完成するとこの地域の列車ダイヤは激変することは確実ですが、完成するまでの間も不安定な運転状態が続きそうです。特に線内普通列車の方を狙って乗車するならば、日程に余裕を持って行く方がよさそうです。






  • おまけ ~新興ループと廃線跡
 Googleの衛星写真で新興ループを見ていて、ループ線の麓にある廃線跡っぽい築堤(上記の衛星写真の中の青色の線)が気になっていたのですが、調べてみるとこれは旧満州国鉄興城線(興寧線)の跡でした。 1940年の開通で、牡図線よりもさらに東寄りの国境沿いを北上して、満露国境の町、東寧までの間を結んでいたものです。路線延長は210kmもある幹線級の路線だったそうです。終戦後はソ連によって一部は解体撤去され、残った部分も続く国共内戦で破壊されてしまったわずか5年の短命路線でした。参考資料はこちら

1970年代にナローゲージの森林鉄道として復旧した部分もありましたが、線路跡の大部分は道路に転用されています。

満州国が熱心にすすめた鉄道建設の残影を垣間見ることができます。



まだ中国には連続ループ線がありますが、一旦中国を離れて次回はイタリアの連続ループ線を見てみることにしたいと思います。

ここまで月3本のペースで記事を上げてきたのですが、今月は多忙だったためについに1本落としてしまいそうです。ぼちぼち頑張って書いていきたいと思います。


2016/10/31

中国⑧南疆線 天山山脈ループ線群 シルクロードをたどる4連ループ線 

  • 遥かなる古代シルクロード

今回から「連続するループ線」をテーマにご紹介していきます。

以前ご紹介した大規模ループ線シリーズとテーマ的にかぶる部分がありますが、「小さいループ線が連続するところ」という感じの路線を集めて行きたいと思います。これまで紹介した中ではタンド線ループ線群やアルゼンチンの雲への列車などはこのカテゴリに入るものですね。日本の上越線もこれになりそうです。ここしばらくマイナーなループ線が続いていましたが、メジャーどころが続々登場しますので乞うご期待。

さて連続ループ線の初回は、中国の西端部の南疆線天山山脈ループ線群をご紹介します。

シルクロードの町トルファンから砂漠のオアシスの町コルラまでの約300kmの間に4カ所のループ線があります。

そもそもこのトルファンが地形的に不思議な町です。タクラマカン砂漠に大きく窪んだところがあって、海抜は100mしかありません。一番低いところで海抜マイナス200mにもなっており、大昔は大きな湖だったのが干上がったものと言われています。

トルファン駅は市街地の中心から40kmも離れた標高600mの高台にあります。駅から市街地までは一直線の下り坂です。

トルファンから2つ目のループ線の先にある徳文託蓋の大カーブだと思います
 著名な鉄道写真家siyang xueさんのサイトからお借りしました →こちら
古代シルクロードの一つ天山南路は、平坦な砂漠をあえて避けて、標高3400mの峠越えをしていました。川沿いを通るので水に困らないのが何よりの利点でした。

南側の砂漠を通れば峠を登らなくてもいいかわりに、飲料水が全く手に入りません。水が手に入らないのは行商には致命的で、距離は短くても砂漠経由は通商路としてはまったく使えませんでした。

南疆線は忠実に古代シルクロードに沿って建設されましたが、標高差2500mの峠越えは鉄道には難題でした。

南疆線はこの区間をダブルヘアピン4カ所とループ線4カ所、それに加えて標高3000m全長6.1kmの奎先(クイシェン)トンネルが作られています。トルファン側から見て登りに2つ、下りに2つの二重双子ループになっています。


線内最高所の烏斯特駅
この区間の開通は1978年~79年で、当時は鉄道トンネルとして最高所で最長と中国語の文献にはありましたが、これはおそらく調査不足でしょう。南米のアンデス山脈には全長はともかくもっと標高の高いところにすでに鉄道トンネルがあったものと思います。

曲線半径は最小800mとさすがの幹線級ですが、中国の鉄道にしては珍しく22‰勾配まで許容しています。

トルファン・コルラ間350kmを通過するのに約9時間かかっていました。この区間にはおよそ10km間隔で37駅ありましたが、居住人口はごくわずかで、ほとんど旅客扱いはありませんでした。


  • 実は一番最近に旅客列車が走らなくなったループ線

さて、もともと南疆線自体、中国の西域開発のために建設されたものですが、2000年から始まった西域大開発政策に伴って、鉄道インフラの強化が加速します。

南疆線については1999年にカシュガルまで全通して一段落していましたが、さらなる輸送力強化としてこの天山山脈越え区間をショートカットする新線を建設することになります。

古代シルクロードが避けた南側の砂漠を21世紀の土木技術で克服しようとする壮大な試みです。

これが第二トルファン・コルラ線(吐庫二線)と呼ばれる全長240kmの160km/h対応電化複線の新線です。

このルートの目玉とも言える最難関が山脈をぶち抜いた全長21kmもある中天山トンネルです。夏は気温40度、冬は零下20度という超過酷な気象条件を克服して2014年に開通、2015年2月より旅客列車は全部新線経由に置き換わりました。

160km対応複線電化新線で吐庫間は劇的に短縮
 この写真は魚児溝駅近くの分岐点です
新華社のサイトからお借りしました
この区間の旧線末期には旅客列車が7往復設定されていました。新線の開通により4時間程度短縮されて、トルファン・コルラ間は現在は約5時間弱になっています。

さらっと書きましたが所要時間が9時間から5時間に半減する大交通革命をもたらしました。距離の短縮、最高速度引き上げ、複線化による待ち合わせ時間短縮の3つが最大限効果を発揮しています。現在、列車本数も18往復に倍増し、最速列車はなんと2時間50分でトルファン・コルラ間を走破するというから驚愕です。

中国の超著名な鉄道写真家王嵬さんの作品からお借りしました。
これも徳文託蓋の大カーブだと思います
その反面、ループ線マニアとしてはループ線を通る旅客列車が全滅してしまっており、残念なことこの上ありません。この区間は高地ステップ地帯と言うものでしょうか、全線にわたって極めて見晴らしの良い区間でした。写真を見ると一面の草原を走っていたようです。

この区間、日本から乗りにいかれた方もかなりいらっしゃったようで、WEB上に南疆線・トルファン・コルラで検索するとたくさん旅行記が出てきます。その中でも旧線区間のことが詳しく出ているサイトを一つご紹介しておきます。→こちら


  • 先のことは分からないがとりあえず存続中  

旅客列車はすでに新線に切り替わっている旧線ループ線群ですが、路線自体は廃止になっておらず2017年現在も引き続き貨物列車が走っているそうです。

将来的に旧線の途中から分岐してイリ(中国名伊寧、ウィグル名グルジャ)からカザフスタンのアルマトィへ乗り入れる国際路線を建設する計画があり、残してあるものと推測されます。単に新線を走れる機関車の増備が追い付いていないだけというコメントも中国語の掲示板で見かけましたが、それもあり得る話です。

計画通り路線が建設されれば再び旅客列車が走ることになりそうですが、政治的に微妙な東トルキスタン地域の中心地であるイリに向けて、ウィグル族の利便性が向上するような列車を中国政府が走らせる気があるのか多少疑問が残ります。この地区では急激な開発に伴って漢民族が大量移住して土着のウィグル族とせめぎ合いを起こしており、たまに大規模な暴動が発生したりしています。

雄大な景色の4連ループを持つ南疆線ですが、その存廃は微妙な国際政治のバランス次第ということになりそうです。



次回は中国からもう1ヵ所ドマイナーな連続ループをご紹介します。

2016/10/23

欧州⑱ブルガリア国鉄南バルカン線 クリスラループ 英雄の眠る町はずれのループ線


  • 戦後生まれの末っ子幹線

まちなかループ線の最終回はブルガリアの南バルカン線にあるクリスラループをご紹介します。

ブルガリアではナローゲージのアヴラモーヴォループをご紹介しましたが、今回ご紹介する南バルカン線はブルガリアの国土を東西に結ぶ3本ある幹線鉄道の真ん中を通る標準軌路線です。

ブルガリア国鉄路線図
開通年度が入っていますがなぜかドイツ語です
一番南の1号線はセルビアからトルコまで繋がっている国際路線で、オリエント急行も走っていました。1888年までに全通している古い路線です。

バルカン山脈の北を通って黒海に面した港町ヴァルナを目指す2号線も1899年に開通しています。1号線と2号線を補完するために作られたのが3号線で、バルカン山脈の南側を通っているので南バルカン線と呼ばれています。南バルカン線の開通で2号線経由よりも30㎞ほどヴァルナまでの距離が短縮されました。

南バルカン線は東西両方向から工事が進められましたが、ソフィアから130kmほど東にあるコズニッツア峠越え区間の工事が難しく、全通したのは第二次大戦後の1952年と比較的最近の話です。この峠区間にブルガリア最長のコズニッツアトンネルとクリスラ・ループが作られました。この区間が南バルカン線の最後の開通区間です。


  • ブルガリア人にとって無視できない小村

クリスラ・ループには二つ特徴があります。

一つは勾配15‰、曲線半径500mと非常に高規格で作らている点。第3の東西幹線を作るというブルガリア国鉄の意気込みが感じられます。

もう一つは、村落をきれいに避けて線路が引かれている点です。コズニッツア峠のトンネルを抜けてストリャーマ駅から13‰勾配で坂を下ってきた線路は、クリスラの町はずれの丘を村落とは反対の方向に輪を描く形でループし、村落の下をトンネルで抜けて川沿いに出ています。

クリスラの町を包むように線路が引かれています

地形図を見ると、クリスラの村落をまったく無視して別の場所に線路を通すか、あるいは村落を分断する形で中央に線路を貫通させれば、ループ線にする必要なかったのではと思えます。しかしあえて村落の近くに線路を通し、なおかつ村落自体に影響を与えないようにルートを選定した形跡がうかがえます。

1950年代はブルガリアはスターリン主義が幅を利かせていた時代です。民衆の意見など聞かぬ媚びぬ省みぬのバリバリの全体主義共産国家でした。

ところがクリスラは1878年に起こったブルガリア人のオスマントルコに対する反乱の中心となった町の一つでもあり、たかだか人口1500人の小村であっても素通りする訳にはいかなかったのではないかと思われます。クリスラにはこの反乱を記念した歴史博物館があり、反乱のリーダーの像が飾られているそうです。

ループ線が村落を避けて通っているため、クリスラの町から線路が見えるところはあまりありませんが、川をまたぐ石積みのクリスラ大橋は鉄道名所となっています。ループ線の高低差は100mです。


  • 減便中につきご注意を

2016年10月現在、南バルカン線にはブルガスまで直通する特急1往復、快速列車と普通列車が2往復ずつ、区間運転の普通列車1往復の計6往復がループ線区間を通過して行きます。いずれも朝と夕方以降の発着で昼間の列車はありません。

本来はもう少し列車があるようですが、現在は線路改良工事で一時的に列車が減らされているようです。昨年段階では特急4往復、快速と普通が7往復の計11往復あったそうです。

首都ソフィアから2時間ほどですので、ブルガリア観光ついでにソフィアから日帰りで見に行くこともできますが、列車の時間はよく調べて行かないとハマります。

You Tubeに前面展望ビデオがありました。最初の10分間はコズニッツアトンネルの中で、10分27秒にストリャーマ駅、12分40秒ぐらいからループ線を通過します。16分40秒に通過するのがクリスラ大橋です。





まちなかループ線シリーズは今回で終了です。

次回からは連続ループ線シリーズをご紹介していきたいと思います。既にいくつか紹介しているところもありますが、一つの列車が連続してループ線を通るところを紹介していきたいと思います。

まず次回は中国の連続ループ線をご紹介します。






2016/10/16

欧州⑰ドイツ・レンツブルグハイブリッジ 超異色の鉄橋ループ線

  • 船を通すために作った超巨大鉄橋ループ線
まちなかループ線シリーズもラストスパートに入りました。今回はドイツのまちなかループ線を二つご紹介します。今回も山岳鉄道ではありませんが、強烈な存在感を放つ世界でも異色のループ線です。

レンツブルグはシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州にある人口3万人の都市です。ここも中世以降ドイツとデンマークとの間で帰属が揺れた地域でもあります。

シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン州はもともと神聖ローマ帝国領でしたが、15世紀ごろからしばらくデンマーク王国の領土となっていました。2度のシュレスヴィッヒ・ホルシュタイン戦争の結果、ちょうど日本の明治維新と同じ時期に当時のプロイセン領となっています。

第一次世界大戦後に半島の中央部、北部シュレスヴィッヒと言われている地域はデンマーク領に復帰しましたが、南部は住民投票の結果ドイツに残留しています。

さて、ユトラント半島の付け根にはデンマーク領だった1784年にキールとテンニングを結ぶ自然河川を利用したアイダー運河が建設されていました。レンツブルグはそのころから河川港の町として発展していきます。

鉄道の開通も古く、1845年にはノイミュンスターからレンツブルグまでの間でデンマーク系の鉄道会社によって開通しています。この時はまだ運河を越える橋はスイングブリッジ=旋回橋で、船が通るたびにレールを回転させていました。

ところが、1868年に一帯がプロイセン領になると、飛躍的に運河の重要度が高まります。列車が通る暇がなくなるほど船の通行量が増えました。航行距離の短縮に加えて、自国の内水だけで北海とバルト海を行き来できる点が軍事的に極めて重要でした。そこでドイツ帝国は新しい運河を開削します。これが1895年に開通したキール運河です。スエズ運河、パナマ運河と並んで世界3大運河と呼ばれています。

キール運河開通後もしばらくは旋回橋を使っていましたが、軍艦の往来に備えるため運河を拡張することになり、旋回橋を廃止して高い鉄橋で運河をまたぐことにしました。この時、レンツブルグ駅を移転させずに運河をまたぐだけの高さを稼ぐ方法として考え出されたのが、ループ線を使ったレンツブルグハイブリッジです。

こうして鉄橋部の全長2400m、鉄橋部の勾配6.6‰、取付部勾配12‰、高低差60mの全長5.5kmにもなる特大ループ鉄橋が1912年に完成しました。

文章にすると簡単そうですが、100年以上前の話です。よくこんなもの考えついて実際に作ってしまったものです。当時のドイツは恐ろしいですね。

さすがにこれだけの高さと長さの鉄橋だけあって見晴らし抜群、地上からの見た目のインパクトも強烈です。あまりにも上空から目立つため、第二次世界大戦中は鉄橋を守る専用の守備隊が置かれていたそうです。なお、鉄道橋の下に車と人を運ぶゴンドラが付いていて、渡し船のような使い方をする運搬橋という構造になっているそうです。

  • 圧倒的通行量を誇る
レンツブルク・ハイブリッジは現在でも旅客列車がものすごい頻度で走っており、ドイツからデンマークへ向かう重要な大幹線です。

キール・フースム線が日中30分ヘッドで1日41往復、ノイミュンスター・フレンスブルグ線が日中1時間ヘッドで1日21往復あります。

それに加えてハンブルグからノイミュンスター・フレンスブルグ経由でデンマークへ向かう国際特急が1日4往復(うち1往復は夜行のコペンハーゲン直行便)あり、合計で1日66往復132本の列車が行きかいます。 これ以外に貨物列車もあるので、かなりのへヴィートラフィックです。実際に乗車された方のページは→こちら


その他、週末にはミュンヘンまでドイツの南北を縦貫する特急や西部ケルンへの直行特急も運転されています。ハンブルグからレンツブルグまでは約1時間20分です。

旅客列車の運行本数では間違いなく世界一のループ線なのですが、山岳鉄道ではないのでナポリ地下鉄同様参考記録ですね。

列車ダイヤがらみで注目なのはキール~レンツブルグ間のローカル列車です。ローカル便にもかかわらず、始発がレンツブルグ発午前4時29分、金曜日の終電はなんと午前1時53分です。

平日でも午前0時31分まで運転されており、山手線も驚く脅威の運転時間。毎週末が大みそか状態のほとんど終夜運転のノリです。ちなみにキール発レンツブルグ行きは始発が午前3時48分!、金曜日の終電が午前1時08分ともっとすごいことになっています。

運転時間が長い割には朝夕のラッシュ時にも毎時2本ずつしかないのが不思議です。一体この区間の輸送需要はどうなっているんでしょうか。キールもレンツブルグも港町なので深夜にも移動需要があるのでしょうか。ちょっと現地を見てみたくなりますね。キールからレンツブルグまでは約40分です。

You Tubeに前面展望の動画がありました。想像以上の迫力ですが、橋の中央付近ではなぜか徐行していますね。



  • ドイツらしいと言えばドイツらしい連絡線ループ
さてドイツのまちなかループ線、もう一カ所は先ほどからちょろちょろ名前の出ているフレンスブルグにある連絡線です。ここも残念ながら山岳鉄道とは言い難いものですが、間違いなくループ線です。


フレンスブルグはどちらかというと商業港で、第一次大戦以降はドイツ最北端のデンマークとの国境の町となっています。

デンマーク領時代の1854年に作られたフレンスブルグ中央駅は、港のそばに作られた手狭なものでした。開通時はノイミュンスターからの路線だけでしたが、1864年にはデンマーク方面に線路が延長されています。この時に手狭なフレンスブルグ中央駅を避け、南側にフレンスブルグ・ヴァイヒェ駅を作ってそこから分岐する形態としました。

その後、ドイツ領になって続々と路線が増えていきます。1881年にはキールへ向かう路線が、1889年には北海側のリントホルムへ向かう線が開通します。ジェノヴァ港近辺と似たようなごちゃごちゃ状態になっていたのですが、ドイツ人はそういうのが許せなかったのでしょう。第一次世界大戦後の1927年にフレンスブルグ中央駅を移転させて、操車場機能はフレンスブルグ・ヴァイヒェ駅に集約しました。この時にできたのがフレンスブルグ連絡線のループ線です。

フレンスブルグ・フリーデンスヴェーク信号場
左の単線が中央駅からくるループ線
右の複線がヴァイヒェ駅に繋がっています
イタリア人とドイツ人の気質の違いが見えるようで面白いのですが、第一次世界大戦のドイツ敗戦後に作られた点も興味深いです。この時代、ドイツは戦後処理が一段落してハイパーインフレも収まり、相対的安定期と言われる束の間の好況期でした。ちなみにこの時日本では大戦中の好景気の反動と関東大震災による戦後不況の真っただ中でした。

フレンスブルグ連絡線には現在デンマーク方面への特急が1日10往復乗り入れています。このうち6往復はフレンスブルグ中央駅の始発・終着ですので、ループ線全体を通過するためにはハンブルグからのデンマーク直通国際特急4往復(うち1往復は夜行便)に乗らないといけません。

2016年現在、フレンスブルグ市では、デンマーク領内の鉄道路線高速化に合わせてヴァイヒェ駅を改築し、長距離列車は中央駅を通らずにデンマーク方面へ直行させる計画があるそうです。現在の中央駅は近郊列車専用にするようです。確かにそれだけでデンマーク方面へは15分ほど短縮できるので合理的ではあります。今のところ議論の段階ですが、この連絡線ループは将来安泰という訳ではなさそうです。





次回はまちなかループ最終回、ブルガリアのループ線をご紹介します。久しぶりに山岳ループ線です。

2016/09/28

欧州⑯クロアチア・リエカ ブライディッツア・ループトンネル 幹線級の大活躍を誰が予想できたのか

  • 旧帝国港町のループ線
まちなかループ線を紹介してきましたが、今回を入れてあと3つです。山岳鉄道らしくないところが続いてブログタイトルとかけ離れているじゃないかと思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、もう少しおつきあいください。

今回はアドリア海の最奥部にある港町、クロアチアのリエカにあるブライディッツア・ループトンネルをご紹介します。


リエカはクロアチア語でそのまま川という意味です。日本にも石川、加古川、大川、白河、川崎、川越など川にちなんだ地名は掃いて捨てるほどありますが、そのものストレートに「川」という地名はありません(たぶん)。なお、リエカの町はイタリア人にはフィウメと呼ばれていますが、これもそのままイタリア語の「川」という単語です。

リエカは中世から港町として栄えており、もとはオーストリア・ハンガリー帝国領でした。帝国領時代はトリエステに次ぐ二番手の港でしたが、ウィーンと並んで帝国の本拠だったハンガリーのブダペスト方面からのアクセスが良く、19世紀中盤以降順調に発展していきました。1865年に東側のザグレブ・リエカ線、1873年に西側のピフカ・リエカ線とかなり早い時期に鉄道が開通しています。

リエカ港で扱われる貨物は主に東のザグレブ・ブダペスト方面へのものが多かったため、いちいち北西側のリエカ中央駅を通るのは面倒だということで、直接本線へ出る連絡線が1900年に建設されました。これがブライディッツア・ループトンネルです。世界のループ線の中でも最古の部類に属する19世紀完成のループ線のうちの一つです。

赤丸は排煙煙突の位置です

この図にはまだスシャク・ペチーネ駅がありません

勾配21‰、曲線半径東側300m、西側280m、高低差は約60m弱で、ループ線の輪の部分の途中で曲率が変化するという、ちょっと変わったというよりも歪んだ形状が特徴です。現在はクロアチア国鉄の運営で、1950年代の中盤に電化されています。

ブライティッツァトンネルの属する連絡線は全長3kmしかありませんが、M603号線と独立した路線番号が付けられています。クロアチアの鉄道線は旧オーストリアハンガリー帝国鉄道線の路線番号制を独自に付番し直して使っており、国際線及び幹線は頭にM、地域主要線には頭にR、ローカル線には頭にLが付きます。ちなみにザグレブ・リエカ線はM202号線、ピフカ・リエカ線はM502号線です。

  • 備えあれば憂いなし
実はブライディッツアトンネルが建設された背景には、微妙に国境問題と民族問題が絡んでいます。

リエカ市街の中央部を流れるリエチナ川よりも南東側は、もともとクロアチア人が多く住むスシャクという別の町でしたが、港湾の発展とともにスシャク地区はリエカの市街地に飲み込まれて一体化して行きました。

旧国境のリエチナ川鉄橋
手前がユーゴ領、奥がイタリア領でした
ちなみにリエカ中央駅よりイタリア側は直流電化
ユーゴ側は交流電化です
しかし、東のザグレブ方面へ向かうために一旦西へ行ってリエカ中央駅で折り返してくるのは、地元の人々には心理的に抵抗があったようです。リエカ中央駅がイタリア人の多い地区にあったのが原因です。

ところが、第一次世界大戦後、トリエステからリエチナ川までは戦勝国となったイタリア領に、スシャク地区は発足したばかりのユーゴスラヴィア領に、それぞれ分割されてしまいます(実はリエカ全体が「フィウメ自由市」として独立宣言した時期もありましたが、これはイタリア軍に鎮圧されています。このあたりの歴史はこちらが詳しいです。)

この国境分断によって、リエカ港はユーゴスラビア唯一の工業港という地位を獲得して、急激に発展していきました。港湾施設はイタリアとユーゴスラビアの共同管理とされていましたが、実際はイタリアが港を使用する機会は少なかったそうです。

このようになってみると、ブライディッツァトンネルが港と行き来するための超重要路線となったのは必然の成り行きでした。イタリア領となってしまったリエカ中央駅を通らないで済むからです。

ただの連絡線が国家的大幹線となったのは先見の明があったからなのか、歴史のいたずらなのか、評価が難しいところですが、今でもM603号線が幹線扱いになっているのはこの名残です。

開通当初、蒸気機関車がトンネル内の上り坂を上り切れなかったり、排煙が不十分で乗務員が窒息したりするトラブルが発生して、旅客の安全上のため旅客営業は実施されませんでしたが、いずれ旅客列車も扱うつもりだったようです。

ところが、一気に物流の大動脈となったため、排煙用煙突を後付けして安全対策を実施したあとも、線路容量的に旅客営業どころではなくなってしまいました。その代わりに本線とブライディッツアトンネルとの分岐点にスシャク・ペチーネ駅が設置されて地域住民の足とされました。この駅は今でも現役で、旅客列車が毎日7往復14本停車します。

スシャク・ぺチーネ駅からリエカ中央駅方面
左が本線、中央がブライディッツァトンネル、右は安全側線です。
左の本線もかなり急勾配です
こちらからお借りしました(クロアチア語)
  • 絶対乗れない方がむしろ諦めがつく
現在もブライティッツァ・トンネルは貨物専用でバリバリの現役ですが、「できるだけ使わないようにしている」そうです。排煙用煙突から列車の走行音がダダ漏れで、騒音問題となっているそうです。現在は電化されていて煙突自体が過去の遺物なのですが、住宅街の真ん中を通るまちなかのループトンネルならではの悲運です。

排煙煙突の一本は公園になっています

ブライディッツアトンネルは開通以来貨物専用なのですが、実は旅客営業がまったくなされなかったわけではないそうです。本線が工事などで通行できない時に、このトンネル経由で旅客列車を迂回運転したことがあるとのことです。

その場合、非電化の併用軌道区間が残るリエカ中央駅から数kmの間を、路面電車のように道路上をゆるゆると走るディーゼル機関車に引かれた国際特急列車が見られたそうです。これはかなりマニア魂を刺激します。


狙って乗ってみたいところですが、そうそう工事運休が生じるものでもなく、事前に日本から察知することも激しく困難で、ほとんどミッション・インポッシブルです。ここを通る旅客列車に乗れたら、かなり自慢してよいのではないかと思います。

港側のトンネルの出口
現在リエカ港のブライディッツア地区では新しいコンテナターミナルが建設されているそうで、それに合わせてブライディッツアトンネルも一部改修が予定されています。

貨物専用で旅客列車が走る見込みは当面ありませんが、クロアチアの物流拠点としてますます重要度が増すものと思われます。

町の真ん中にあるループ線はこれからも活躍が続くでしょう。








マイナーなループ線が続いていますが、次回はちょっと有名なドイツのまちなかループ線をご紹介します。