2017/11/21

中国⑫青蔵線旧関角ループ線群 思い出の高山ループ線

  • はるかなる天空へ続く鉄路
今回は中国青海省の青蔵線(通称チベット鉄道)のループ線をご紹介します。

青蔵線は世界最高所を走る鉄道として有名ですが、その成り立ちは極めて政治的な背景によるものでした。

1949年中華人民共和国が成立すると1950年にチベットに侵攻し、中華人民共和国領土であると宣言し、漢民族が大量に入植して人数でチベット人を圧迫していきます。その流れで着工されたのが青蔵線です。結局のところ兵士と入植者をチベットへ送り込むのが最大の建設目的だったことになります。

こちらからお借りしました
1958年にチベットへの入り口だった西寧から工事が始まり、文化大革命の混乱で一時工事がストップしたりしましたが、1979年に西寧~ゴルムド間830kmの第一期区間が開通しました。

高速鉄道を5年ぐらいで作ってしまう中国では、これは異例の長期プロジェクトだったと言えるでしょう。当初は軍用輸送専用でしたが1984年に一般旅客営業を開始しています。

なお、世界最高所を通る「天空の鉄道」として有名な海抜4000m以上の超高地区間は一期の開通区間内にはありません。海抜4000m超区間は2001年着工2006年開業の第二期区間ゴルムド~ラサ間です。こちらは延長1160kmと第一期区間よりも距離が長いにもかかわらず着工から5年で開通しています。


  • 富士山よりも高い大規模ループ線群
さて、青蔵線のループ線はチベット高原の入り口、青海湖の先にありました。元来標高は高くても全体的に比較的なだらかなチベット高原ですが、ところどころ急峻な山脈があり、交通を遮っていました。青海湖とその左下にポツンとあるツァカ湖(チャカ湖、茶卡盐湖)の境にある関角峠もその一つです。青海湖側はなだらかな丘陵になっていますが、峠の西側ツァカ湖側は急激に落ち込む鋭い谷になっています。

こちらからお借りしました
青蔵線は青海湖の周囲をぐるっと回って少しずつ高度を上げていき、峠を標高3800mの旧関角トンネルで越えたあと、深く切れ込む谷に向かって全長24km標高差400mをループ線とヘアピンターンの組み合わせで克服するルートで当初建設されました。

これが旧関角ループ線群です。へアピンターン群のちょうど中央にループ線があり、曲線半径は300m、勾配は15‰でした。ループ線は直近の駅名から二郎ループ線(二郎螺旋展線)と呼ばれていました。

ループ線と7か所のヘアピンターンが合わさった世界的にも大規模なループ線群でしたが、このループ線群は世界最高所にあるループ線でもありました。ループ線群の全体が富士山よりも高いところにあったと聞くとそのスケールに驚きます。


こちらからお借りしました
そのあまりにダイナミックな風景は中国の鉄道写真家の羨望の的でした。中国のループ線のフラッグシップ的位置づけでもあったようです。一応道路はありますが、近づくのも困難なこのループ線の写真がWEB上でいくつも見つかります。

鉄道写真撮影だけでも高山病になりそうで心配になりますし、加えて一番近くの町まで軽く100kmはある人跡未踏の辺境の地だったことも重要です。事故で死んでも誰にも気づいてもらえないところでした。鉄道写真のためにかなり本格的な登山装備が必要な、割と真剣に命がけの撮影だったと思われます。

  • 関角、再見!
冬の写真がほしい、と思ったけどよく考えると無理な注文ですね
こちらからお借りしました
この青蔵線がチベット地区にもたらした交通便益はまさに革命的でした。良いか悪いかは別にして、人も物も交流が一気に進み、もはやチベットは僻地ではないと言われるまでになりました。

さらに輸送強化を図るべく、第二期工事完成前の2005年から輸送力増強工事を実施してゴルムドまでの区間を複線電化することになりました。

この時、旧関角峠の部分は全長34㎞の新関角トンネルを建設して旧関角ループ線群を一気にバイパスしてしまうという中国らしい大胆な計画となりました。

新線の開通で30㎞距離が短くなり、所要時間が2時間短縮されました
この工事が完成した2012年以降、列車はすべて新関角トンネル経由に変更され、旧関角ループ線群は廃止されました。旧線が一般旅客営業していたのは28年間と比較的短命なループ線でした。

この青蔵線、現在はチベット地区への一大幹線となっており、旅客列車が北京、上海、広州、重慶、蘭州と中国各地から1日5往復走っています(重慶発着と成都発着は隔日交互運行、蘭州発着は隔日で西寧止まり)。西寧からゴルムドまで約7時間、ゴルムドからラサまで約13時間かかりますので、全線を日中に乗ろうと思うと途中駅で一泊必要になります。




  • 今なお開発が続くチベット
上の方で少し触れたツァカ湖は「中国のウユニ」と言われる非常に美しい湖で、ちょっと行ってみたいところです。ここにはシーズン中、毎日西寧から観光列車が出ており、西寧から日帰りできます。

また、チベット地区では鉄道建設のビックプロジェクトが目白押しです。

2017年11月現在、ゴルムド~コルラ線、ゴルムド~敦煌線がそれぞれ建設中です。タクラマカン砂漠を貫いて線路を敷くとかスケールでかすぎです。一般旅客営業をすぐ開始するかは分かりませんが、どちらもあと数年で開通する段階だそうです。

東洋のウユニ、ツァカ湖 
ただし本家よりも晴天率が著しく低いため青空の日に当たるには相当な強運が必要だそうです
さらにラサから先、ネパール国境までの鉄道も建設中で、途中のシガツェまでは2014年に開通しています。

またラサ~シャングリラ~大里~昆明の路線も建設中です。

地図上での距離は近くても一切の交通が断絶されていたチベットと雲南省・四川省が鉄道で結ばれるとどういう変化がおきるのか。

長江、メコン川、サルウィン川の三大河川が並んで流れる三江併流地域をどのようなルートで鉄道を建設するのか、興味は尽きません。ここも途中のラサ~林芝間400kmが2021年に開通予定です。

青蔵線自体もロマンあふれる鉄道ですが、今後しばらくチベット地区の鉄道網の発達は見逃せません。



有名なループ線シリーズは今回で終了です。

世界のループ線を紹介して丸2年、だいぶ残りが少なくなってきました。しかも有名なところをまとめて紹介してしまったのでマイナーどころばかり残ってしまいました。これはちょっとマズかったかもしれません。

次回からは残りのループ線をランダムにご紹介していきます。まずはヨーロッパなのかアジアなのか微妙なところにあるロシアのループ線をご紹介します。

2017/11/07

オセアニア④オーストラリア クーガル・スパイラル シンプルな味わいのオージーループ線


  • 日本の県境とはかなり違う

今回はオーストラリアのループ線をご紹介します。

オーストラリアは土地が広大で人口密度が少ないため、もともと鉄道旅客輸送にはあまり向いていません。実際オーストラリアの長距離旅客輸送は現在ではほとんど壊滅状態です。

一方石炭や鉄鉱石などの鉱物資源の鉄道輸送は大活躍しています。鉄道は運転士一人で何万トンもの鉱物を運べますが、トラック一台につきドライバー一人必須となるトラック輸送では、せいぜい200トンが限界です。人ひとりあたりの輸送効率では鉄道の圧勝です。今も昔も鉄道の最大のお客さんは鉱石です。

さて、オーストラリアの鉄道は州ごとに全然別の規格で独自に鉄道網を構築していったことが特徴です。それぞれの州政府が建設した公設鉄道を基に発展していますが、メルボルンを中心とするビクトリア州は1600㎜ゲージの広軌、シドニー中心のニューサウスウェールズ州は標準軌、ブリスベン中心のクィーンズランド州は日本と同じ1067㎜ゲージでした。

それぞれ州境での乗り換えや積み替えを余儀なくされており、不便なことこの上ありませんでした。この軌間混在は根本的には今でも解消されておらず、オーストラリアではあちこちにごく当たり前に三線軌区間が存在しています。

もっともオーストラリアの州境は、borderという単語で表されるとおり日本の県境よりもはるかに境界の意味が強く、どちらかというと国境に近いニュアンスです。

ニューサウスウェールズ州とクイーンズランド州の間では、1888年からニューサウスウェールズ鉄道北本線とクィーンズランド鉄道南線が州境のワランガラ駅で連絡していました。前述のとおりシドニー側が標準軌、ブリスベン側が狭軌で列車の乗り入れはできません。しかも海岸沿いに屏風のように立ちはだかる中央山脈を避けたルートだったため、かなりの遠回りとなっていました。

一時期中央山脈をループ線で越えるブリスベンからワランガラまでの短絡線が割と真剣に検討されましたが、ニューサウスウェールズ鉄道北海岸線をブリスベンまで延長することになり、短絡線計画はお蔵入りになってしまいました。もしもこの時、ワランガラへの短絡線が開通していれば、もう一か所ループ線ができていたことになります。マニア的にはちょっとだけ残念です。

  • 展望台から眺めるループ線

 こうして1930年にニューサウスウェールズ鉄道が標準軌のままクイーンズランド州に乗り入れるという形で、シドニー・ブリスベン間の直通列車が走るようになりました。この時州境の峠越えに建設されたのがクーガルスパイラルです。

クーガルスパイラルは峠のシドニー側の麓の街、カイオーグルからローガン川を遡った谷の突き当りにあります。

張り出した山の尾根を使って高度を稼ぐ形になっており、曲線半径は250m、勾配は15‰と資料にありましたが、おそらくこれは平均勾配でしょう。ループ線部分の高低差が地形図読みで70mほどですので、最急勾配は20‰ぐらいはありそうです。

見た目も形状も非常にシンプルなループ線ですが、尾根を回り込む形になっているため見通しはあまりよくなくて、列車の車窓からの眺めは期待できません。

ところが、このループ線付近一帯が国立公園になっており、ループ線を見下ろす場所にある道路がライオンズロードと呼ばれる州境地区国立公園の観光道路となっています。

ボーダーループ・ルックアウトBorder Loop Lookoutというループ線を一望のもとに見下ろす展望台が作られたり、ボーダーループ・ウォークというハイキング道も整備されるなど、積極的に観光資源化されています。
ボーダーループルックアウトからの眺め
1970年の写真だそうです。こちらからお借りしました

オーストラリアに2ヶ所しかないループ線のうちの一つでもあり、オーストラリアの鉄道趣味人にはアクセスしやすい格好の撮影スポットになっています。

難点は列車本数が少ないことです。テハチャピ峠や鳩原のようにばんばん列車が来ればいいのですが、ここは1日数回しか列車が通りません。

  • 旅客列車もまだ存命中


オーストラリアでは前述のとおり旅客輸送はほとんど瀕死ではありますが、さすがに人口500万人のシドニーと人口200万人ブリスベンの両大都市間には、一定の鉄道での旅客移動需要があるようです。

2017年11月現在、シドニーブリスベン間の夜行特急列車が1日1往復、クーガルスパイラルを越えて走っています。

ただし北向きのシドニー発ブリスベン行列車は深夜帯にループ線を通過するダイヤになっているのでループ線見物には使えません。ループ線通過を見物するのであれば南向きブリスベン発シドニー行列車に乗る必要があります。

また、この他に一日数本貨物列車が走っているそうです。

ループ線を走る夜行列車。4時間遅れで偶然日中撮影できたそうです。
こちらからお借りしました
オーストラリア大陸のループ線というと豪快なのをイメージしますが、ここクーガルスパイラルは規模も風景も極めてこぢんまりとした箱庭のようなループ線で、日本人の感覚にはマッチしているかもしれません。車でならブリスベンやゴールドコーストから余裕で日帰りできます。





次回は有名なループ線の最終回、中国のあのループ線をご紹介します。

2017/10/10

欧州㉖フランス ソンポール峠線セイエルストンネル もうすぐ復活!?悲運の事故廃止ループ


  • ピレネーの巡礼街道を行く国際ローカル線

今回はフランスとスペインの国境地帯ピレネー山脈の廃線ループ線をご紹介します。

ソンポール峠の路線図
現在ベドゥ―~カンフラン間33.2kmは列車が走っていません
フランスとスペインの国境を越える鉄道路線は4ヵ所作られました。大西洋線(仏:アンダイエ~西:イルン1864年)、地中海線(仏:セルベール~西:ポルトボウ1878年)、ピレネー東線(仏:ラトゥールカロル~西:プッチサルダ―1929年)と今回ご紹介するソンポール峠線(仏:ルフォール・ジュ・ダベル~西:カンフラン1928年)の4ヵ所です。

なお、2013年地中海線に標準軌の高速新線が開通し、フランスからTGVの直通列車の運転が始まりました。これを含めると仏西間の国際鉄道路線は現在5ヶ所となっています。

スペイン国内はイベリアンゲージと呼ばれる1668mmの広軌、フランス国内は標準軌です。鉄道創設期にフランスからの侵略を恐れたスペイン側がわざとフランスとは異なるゲージを採用したと伝えられています。スペインは大航海時代に覇権を築いた当時の列強の一画で、仏西間の国際鉄道は思ったよりもずっと早い1860年代から幹線として活躍していました。


  • 国境を越える線路にあった決まり事

仏西間の国際鉄道はちょっと面白い運転形態を取っていました。フランスの列車は国境を越えたスペインの最初の駅まで運転して、乗客も荷物も全部降ろした後、空車回送でフランス最後の駅まで戻ります。スペインの列車も同様に、フランスの最初の駅まで行って回送で一駅戻っていました。

ですので、国境を越える部分はどこも広軌と標準軌の線路が別々に引かれた単線並列の形になっています。現在ではフリーゲージトレインを使った直通特急も走っています。

ところが、このソンポール峠だけは原則と異なり、スペイン国内のカンフラン駅で双方が折り返す形となっています。国境にある全長7800mのソンポールトンネルが標準軌規格で、スペインの広軌の車両が通れなかったためです。さすがにこの長大トンネルを両国の規格で1本ずつ掘るのは経済的に無駄が多く、三線軌条にするには軌間差が少なすぎたということなのでしょう。

ただし、ソンポールトンネルのフランス側に、ル・フォール・ジュダベルという信号場がありますが、信号場~国境間と国境~カンフラン駅間がぴったり同じ距離であることから見ると、原則通りお互いに国境を越えて一駅間だけ乗り入れる形態を検討していたのではないかと思います。

このル・フォール・ジュダベル信号場跡は現在は周囲に何もない不思議な空間ですが、カンフラン駅のような国際連絡駅を作る意図があったとすれば納得です。なお、この信号場は開通早々に休止されたようです。ひょっとすると当初から信号場としては機能していなかったのかもしれません。

このソンポール峠線は1907年のフランススペイン間の合意で建設が始まり、1912年には国境のソンポールトンネルも開通していました。ところが第一次世界大戦のゴタゴタに巻き込まれて、実際に列車の運行が始まるのは16年も後の1928年になってからでした。

もともとこのソンポール峠への通り道アスプ谷は、エル・カミーノと呼ばれるカトリック教徒の巡礼路で、古くから敬虔なクリスチャンが多数行き交う街道でした。日本のお遍路道のようなものでしょうか。→くわしくはこちら 

わざわざこんな険しい谷に鉄道を敷設しなくても、というのはよそ者の考えなのでしょう。この峠を越えること自体に意味があったようです。

ソンポール峠線は、最急勾配43‰のハードな急勾配を克服するべく最初から電化路線として開業しました。ループ線はフランス側の最後の駅、ユルドス駅と谷の最奥部ル・フォール・ダルジュ信号場の間に作られています。

ループ線部分の大半が全長1792mのセイエルス・ループトンネルになっていて眺望は効きませんが、トンネルを抜けて断崖の上に出てきた時に谷を一望できました。トンネル内の勾配は34‰、曲線半径は270m~300m、標高差はループ線部分だけで70mとかなり大型のループ線で、急勾配であることを除けば国際路線にふさわしい立派な規格の路線でした。

  • 悲劇は突然に

ループ線から谷を一望できたようです
こちらからお借りしました。(他にも貴重な写真多数あり)
1970年の早春、峠をカンフランに向かっていた貨物列車が駅の手前で坂を登れなくなってしまいました。

この日は貨物が多く、おまけに機関車の調子が良くなかったため、機関車に備え付けられていた砂撒き装置の砂も全部使いきっていました。

機関士と助手は止まってしまった機関車から下りて、線路の回りの砂を車輪の下にまいていました。

ところが、調子が良くなかったのは実は機関車ではなく変電所の方でした。機関車の出力が上がらなかったのは架線電圧降下を起こしていたためで、停車中に電圧がゼロになって停電してしまいます。

勾配の途中で立ち往生した貨物列車は徐々にブレーキ圧が抜けていき、ついに列車の自重で逆走し始めてしまいました。こうなると機関士たちにできることは何もありません。トウモロコシを満載した貨物列車は5km逆走して時速100㎞を越えるスピードでエスタンゲ鉄橋に激突し、大破してしまいました。

幸いけが人は出ませんでしたが、フランス国鉄SNCFは多額の費用がかかるからと早々に復旧を諦めてしまいます。ソンポール線のベドゥ~カンフラン間はあっさり廃止とされてしまいました。

災害で廃止になった鉄道路線は歴史上まで多数存在しています。岩泉線とか高千穂鉄道など近年の日本でもいくつか実例があります。

ところがこれは災害ではなく事故で、しかも鉄道事業者の責任事故です。それなのに早々に復旧を放棄してしまうのはちょっと不可解な感じもします。もとからいずれは廃止したいという意向だったのでしょうか。フランス国鉄は妙に割り切りがいい時があります。かろうじて残ったベドゥまでの区間も1985年には需要減少を理由に廃止になっています。

いずれにしてもカンフラン線のループ線は今のところ世界唯一の「事故で廃止になったループ線」です。あまり褒められた称号ではありません。

ところが、近年環境配慮の機運の高まりで事態が変化します。2008年に平行する国道が地すべりで片側通行になり、とんでもない大渋滞を起こしたことから鉄道輸送が再評価されることになりました。廃線区間の線路や橋梁などが比較的よく残っていたこともあり、2016年に修復工事を経てベドゥまで旅客運転が復活しました。ただし電化は復元されませんでした。現在は1日5往復のディーゼルカーが走っています。

ソンポール峠線の復活運動はかなり盛り上がっており、地元自治体の資金援助も受けて2020年までにカンフランまでの全線を復活させると鼻息が荒いです。ループ線が華麗に復活するか、ここ数年が勝負どころです。


  • 山間の国境駅カンフラン

ついでですので、国境を越えたスペイン側の路線にも少し触れておきましょう。

上がフランス側、下がスペイン側です
ソンポール峠線の終点、カンフラン駅(スペイン語ではカンフランク駅)は山間に突如出現する巨大な国際駅で、壮麗な建物とフランスから列車が来なくなった絶妙の廃墟感で一部にカルトな人気スポットとなっています。映画の舞台にもなったそうです。

配線図を見るとスペイン規格の線路がフランスからの列車を包むような形になっています。一応ここからスペイン側は現役で、ハカまで1日2往復ディーゼルカーが走っており、列車で訪れることが可能です。

またこのカンフラン・ハカ線には途中に大きなダブルヘアピンがあります。立体交差していないのでループ線ではありませんが、サンホアン陸橋という特大の陸橋で高度を稼ぐなかなかの鉄道名所です。

ひなびた山間部の巨大な国際駅はインパクト絶大です
駅舎内部は現在鉄道博物館になっているそうです








次回はオーストラリアのループ線をご紹介します。

2017/09/30

欧州㉕ドイツ ヴータッハ・ヴァレー鉄道 観光列車として生き残ったミリタリーループ線


  • 国境沿いを行く"豚のしっぽ"

今回はドイツとスイスの国境沿いのヴータッハ・ヴァレー鉄道にある観光鉄道のループ線をご紹介します。

ヴータッハ・ヴァレー鉄道はドイツ語でヴータッハ・タール・バーンWutachtalbahnと書きます。本ブログでは英語表記のヴータッハ・ヴァレー鉄道と表記することにします。

また、このヴータッハ・ヴァレー鉄道の中間の観光鉄道の部分にはザウ・シュヴェンツレ鉄道という別名があり、ループ線はこの中間部分にあります。

ザウはドイツ語で雌豚、シュヴェンツレは尻尾です。地図上の線路の様子を例えたものなのですが、ザウもシュヴェンツレもあまり品の良い単語ではなく、侮蔑・罵倒のニュアンスがあると辞書で出てきます。もっとも、鉄道の名称に使うぐらいなので外国人が気にするほどのものではないのかもしれません。

ちょっと話がそれますが、これまでもたびたび出てきたドイツ語のBahnという単語は実は女性名詞だそうです。

ドイツ語は豚の雄雌で別の単語を使い分けますが、どうしてオス豚ではなくメス豚の尻尾なのかと思ったら実は鉄道という単語の性に引っ張られたようです。鉄道を意味する単語はフランス語・スペイン語では男性名詞、ドイツ語・イタリア語・ロシア語では女性名詞です。まるで一貫性がないのがすごいです。

さて、ヴータッハヴァレー鉄道はドイツとスイスの国境に沿って走っています。場所によってはスイス国境まで1㎞もありません。

この一帯はちょうどドナウ川とライン川の分水界になっている地域で、南側のライン川流域と北側のドナウ川流域では300m近い高低差があります。

ヴータッハ・ヴァレー鉄道は、高原になっているドナウ川流域から、深い谷底のライン川流域までの約20kmをループ線と4カ所のヘアピンターンで克服しています。


  • 眺めの良きは七難隠す

もともとこのヴータッハヴァレーに鉄道を敷設する計画は1860年代からありました。1870年代になってアルザス・ロレーヌ地方がドイツ領になると、ミュンヘン方面への石炭輸送需要が高まります。一般の物資輸送はスイス経由で行われていましたが、軍需品はスイス国内への持ち込みが禁止されていました。

そのためスイスを通らないドイツ領内で完結する独自の輸送ルートが必要となり、がぜんヴータッハ谷が注目されたのでした。途中の脆弱地形に苦労して工事が一旦挫折しかけていたところを最終的に軍部が強力に介入して1890年にヴータッハヴァレー鉄道を開通させています。


ヴータッハ・バレー鉄道はこのように100%軍事目的に作られた路線で、軍部の意向が強く反映された独特の構造を持っています。勾配は重量輸送を想定して全線10‰、正確には98分の1勾配=10.2‰に抑えてあります。この0.2‰にこだわるあたりがドイツっぽいですよね。

最小曲線半径は300mで、鉄橋がすべて砲台を運搬するために重量物耐荷重設計になっていたり、700mもの長大な待避線を持つ交換駅を設けてあったり、かなりのハイスペックです。全長20km程度のこの区間に交換駅が5か所もあるのもミリタリースペックの名残でしょう。全線に複線化準備工事もなされているそうです。

ヴータッハ・バレー鉄道の中間、現在は観光鉄道になっている部分はライン川の深い谷の絶壁沿いを走り、丘の畑の下を全長1700mのシュトックハルデ・ループトンネルで一周して高度を下げます。ループ線自体はトンネルと断崖に阻まれて眺望が効きませんが、前後の4つのヘアピンターンは丘と谷を見下ろす眺望の良い区間を走ります。

元が軍需路線だったヴータッハヴァレー鉄道は二度の世界大戦中は目論見どおり大活躍しました。ところが戦争が終わり、スイス国内を通過できない軍需物資の輸送需要がなくなると、存在価値が半減してしまいます。全線を走る貨物列車は1955年に廃止され、レールバスと貨物列車の区間便が細々と残るだけになっていましたが、ついに1976年、ヴータッハ・ヴァレー鉄道全線で旅客輸送も廃止されてしまいました。

ところがこの路線の景色の良さは以前より知られており、貨物列車が廃止になったころからすでに観光鉄道としての再生を模索する動きがありました。廃止の翌1977年には早くも廃止区間の一部を使って観光列車の運転が再開されています。ヨーロッパ各国からのアクセスが比較的良かったこともあり、観光鉄道は大成功となりヨーロッパでは一躍有名な鉄道名所となりました。軍事路線として生まれたループ線は眺望の良さのおかげで平和な時代を生き延びることができました。2017年は観光列車運転開始からちょうど40周年に当たっています。公式HPは→こちら


  • 全線に列車が戻った奇跡

現在、観光列車は5月から10月までの間、蒸気機関車牽引の列車が1日2往復4本走っています。なお、繁忙期でも週2日は運休日があるというのんびりした運行スケジュールですので、狙って乗りに行く場合は要注意です。たしか一昨年あたりまでは1日4往復運転して居た日もあったはずですが、いつのまにか列車が減ってます。

エプフェンホーファー大鉄橋。この線の一番の見どころです
運賃は片道16ユーロ(約2100円)、往復22.5ユーロ(約3000円)で、蒸気機関車ではなくディーゼル機関車が牽引する日は少し安くなります。

ヴータッハヴァレー鉄道はしばらくの間、と言っても約30年間になりますが、前後の廃線に挟まれて中間部部分だけが観光鉄道として走っている状態でした。ところが1990年代の後半から地方交通改革の流れが生じ2003年に南部、2004年に北部の旅客列車が復活しました。

北部を走るレールバス。リングツーク(RingZug)という愛称がついています。
今ではライン川沿いのラウフリンゲンからシュヴァルツヴァルトバーンに接続するイメンディンゲンまでの全区間を再び列車で通ることできるようになっています。

この再開区間は一応一般の普通鉄道とされていますが、南部は観光鉄道に合わせたシャトル運転で、観光鉄道が走らない日は全便運休となります。北部は2017年ダイヤでは平日8往復、休日3~4往復のレールバスが走っています。

全線を直通する列車が再開されないのは、中間の観光鉄道部分に残る旧型の腕木信号区間にレールバスが入線できないからとのことです。腕木信号を更新すると今度は蒸気機関車が走れなくなってしまって観光鉄道的にはまずいです。が、そもそも全線を直通する流動が少なく、再開する気もあまりないようです。

しかし30年前に廃止された鉄道路線に、形はどうあれ再度列車が走るようになることがあるのはいいことですよね。日本では路線廃止後に普通鉄道として復活する例は極めて少ないので少しうらやましくもあります。



次回はフランスのループ線をご紹介します。

2017/08/31

北米⑤ローリンズ峠ライフルサイトノッチループ  ある鉄道屋が残した線路の物語

  • ロッキー山脈を貫け!

今回はアメリカコロラド州、ロッキー山脈にあったループ線をご紹介します。

アメリカでは鉄道建設は民間資本によるのが原則だったことは何度がご紹介しています。これはメリットデメリット両方あったのですが、有名な鉄道投資家を何人も輩出した効果もありました。日本では阪急の小林一三と東急の五島慶太の二人ぐらいしか思いつきませんが、アメリカには有名な鉄道投資家が各地に数えきれないほどたくさん生まれました。

赤がデンバー・NW・パシフィック鉄道
青がデンバー&リオグランデ鉄道
点線はその他の鉄道
鉄道が乱立しているのはアメリカならではです。
今回ご紹介するコロラド州のローリンズ峠にあるライフルサイトノッチループはそんな鉄道投資家の一人コロラド州デンバーの銀行家、デビッド・H・モファットという人が生涯をかけて開通させた大陸横断鉄道の一つでした。

時代は1890年ごろの話になります。

この時期、コロラドから西海岸のオークランドまで、既に大陸横断鉄道が完成していました。デンバー&リオグランデ鉄道の914mmゲージの路線がロッキー山脈を迂回してプエブロからマーシャル峠を越えるルートで開通しています。

モファット氏は一時期デンバー&リオグランデ鉄道の経営陣に名を連ねていましたが、社内紛争の結果1891年に辞任させられてしまいました。

さらにデンバー&リオグランデ鉄道は、1890年に途中のサライダから分岐してテネシー峠を越えてグランドジャンクションに至る二本目のロッキー越えルートを同じく狭軌で開通させています。こちらは、標準軌の列車も走れるように三線軌とされ、当時はこちらがメインルートになっていました。

鉄道建設に私財を投げ打って奮闘したモファット氏、何が彼をそこまで駆り立てたのかイマイチ分かりませんが、デンバー&リオグランデ鉄道には波々ならぬ対抗心があったようです。

彼はデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道という会社を作り、「ロッキー山脈を迂回せずに貫け」
”Through the Rockies, not around them." を合言葉に、1902年ライバル会社のルートに距離の短さで対抗する新線の建設に取り掛かりました。

工事は順調というよりもむしろ突貫で進み、1904年には大陸分水嶺のローリンズ峠を越えてアロー駅まで開通します。

有名なライフルサイトノッチのループ線はこの時誕生しました。

モファット氏はもともと長大トンネルでこのローリンズ峠を越えようと目論んでいたのですが、20世紀初頭の技術では無理だったようです。

  • 偉大な志は名前となって今も受け継がれる

さて、このライフルサイトノッチのループ線は全長37㎞の峠越えの途中にあり、最急勾配40‰、冬季は豪雪となる難所中の難所でした。一周1.6kmと当時としてはかなり大規模な輪を描いており、高低差はループ線部分だけで約80mでした。
ライフルの照準に見えなくもないでしょうか

ライフルサイトは文字通りライフル銃の照準のことで、ノッチは”細い道”です。ちょうどループ線部分のトンネルと橋の組み合わせがライフル銃の照準に見えることから名付けられました。

ついでですが、このローリンズ峠越え区間にある駅名やトンネルの名前はアメリカンジョークのような名前が付いていて見ていると面白いです。一見普通の名前に見えるアロー駅、コロナ駅、パシフィック駅なんかもひねりのきいたジョークが隠されてるのかもしれません 。

鉄道にとっては難所中の難所でしたが、雄大なロッキー山脈の中の景色の良い場所を通っており、たちまちアメリカ人に人気の鉄道名所となりました。


ところが、モファット氏が1911年に急死するとデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道の経営は途端に傾き、1913年にあえなく倒産。西海岸どころかソルトレイクシティにもたどり着けずに工事は中止になってしまいました。

完成していたデンバー・ノースウェスト・パシフィック鉄道の路線はデンバー・ソルトレイク鉄道に吸収されますが、それ以降も何度も経営主体が変わっています。

ただ、ロッキー山脈を迂回せずに貫いた峠の路線はその距離の短さが絶対的優位に働き、既存のテネシー峠を越える路線との連絡線(ドットセル連絡線)が建設されて大陸横断のメインルートの地位を確立していきました。
アロー駅。驚いたことに水平な引き出し線に
ホームを作った日本によくある構造のスィッチバックだったようです。
隣のランチクリーク駅も衛星写真から見る限り同じ構造でした。

1928年、 モファット氏の最初の構想どおりローリンズ峠を越える延長10km勾配8‰のトンネルが開通し、ライフルサイトノッチのループ線は新線に切り替えられて廃止されました。

26年間で使命を終えた比較的短命なループ線でした。新線の長大トンネルはモファットトンネルと名付けられています。西海岸までは届きませんでしたがロッキーを越えるモファット氏の志はトンネルの名前として今も残っています。


  • 古き良きアメリカの魂

廃止されたループ線の方はローリンズ峠トレッスル(通称モファットロード)として遊歩道兼車道になって大部分が残されていますが、トンネルや橋が崩落している部分があります。ちょうどループ線の部分は木造の橋もトンネルもどちらも通行止めで現在は車では通れません。
現在のループ線の状況
雰囲気はよく残っていますがトンネルは埋められています

このライフルサイトノッチのループ線はロッキー山脈に挑んだ点がアメリカン魂を刺激するのか、古くに廃止された割には全米の鉄道愛好家に愛されており、現地の写真が豊富に見つかります。

また、新線となったモファットトンネルにはロサンゼルスとシカゴを結ぶカルフォルニアゼファー号が毎日運転されています。カルフォルニアゼファー号はまる3日間かけて3000㎞を走る超長距離列車ですが、毎日運転されているのは結構すごいです。

西向きに乗った場合は2日目の午前中に、東向きに乗った場合は2日目の夕方にロッキー山脈越えのモファットトンネルを通ります。一部の区間だけでも乗れますので、デンバーから西向きに乗って途中で折り返してくることも可能です。

これも一度は乗ってみたい列車ですね。



次回はドイツのループ線をご紹介します。

2017/08/15

アジア⑪韓国嶺東線ソラントンネル 三冠に輝くループ線のプリンス


  • 東洋のプリンス・オブ・スパイラル

今回は韓国Korail嶺東線のループ線をご紹介します。現時点でいくつものループ線に関する世界タイトルを持っているループ線のプリンスです。

ソラントンネルの北口
旧線の最終日だそうです。こちらからお借りしました。
韓国の嶺東線は太白山脈東側の東海岸部とソウルを中心とする韓国中央部を結ぶ唯一の鉄道路線です。東部の海岸沿いを走る部分は戦前から工事されていましたが終戦までに完成せず未成線となっていました。

また、山越え部分は三附鉄道という私鉄線として1940年に開通しました。有名な嶺東線の二段スィッチバック(羅漢亭ナハムジョン、興田フンジョン)もこの時の開通です。三附(サムチョク)には小野田セメントの工場があり、付近から産出される石炭や石灰などを使った工業が発達していました。三附鉄道は終戦後の1948年に韓国国鉄に編入されています。

開通時は最後の峠越えの部分桶里(トンリ)~深浦里(シンポリ)間はインクライン輸送となっていました。鉄道線で海岸沿いから来た貨車を深浦里で切り離し、貨車だけをインクライン(ケーブルカー)で引っ張り上げて桶里で再度貨物列車に編成し直すという運用を行っていたそうです。

桶里~深浦里間にあったインクライン
これはどれぐらいの勾配なんでしょうか
「鋼索鉄道のインクラインに直接貨車が乗り入れていた」と書いてある資料がありましたが、普通の鉄道貨車を鋼索鉄道上で走らせるのは、連結器性能や非常時のブレーキ性能から考えるととんでもなく危険です。

「ケーブルカーに(貨物を)積み替えていた」と書く資料もあり、普通に考えるとこちらだと思います。もし本当に普通の鉄道貨車を鋼索鉄道上に直通させていたとすれば、これは世界の鉄道史上かなり珍しい運行形態です。

なお、旅客は両駅間を徒歩で乗り継いでいたそうです。

さて1960年代に輸送力の限界に来たところで、インクライン部分を直結するバイパスルートの建設が進めら、 1963年にバイパス線が開通してインクラインは廃止されました。これが先日まで稼働していた嶺東線の旧線ルートです。この旧線の完成後もこの区間は30‰の連続勾配と曲線半径250mのカーブが続く超難所でした。


  • 三冠王には違いないけど…

この超難所を抜本的に解消するために建設されたのがソラン・ループトンネルです。漢字では率安と書きます。2001年から建設が始まり、トンネル自体は2006年ごろには完成していました。当初2009年開業予定でしたが何度か延期され、結局2012年に開業しています。前後の取付線の工事に手間取ったそうです。

ソラントンネル山上側の東栢山口こちらからお借りしました
将来はもう一本トンネルを掘って複線化する計画がありますが、まずは単線で開業しています。ちょうど中間地点にあるソラン信号場付近だけは二本目のトンネルが先行して掘られており、列車交換ができるようになっています。

トンネルの全長は16.2kmですが、ループ形状になっているのはこのうち半分だけです。トンネルの両端には380mの高低差があり、トンネル内の勾配は24.5‰もあります。

最新の長大ループトンネルをもってしてもなお25‰クラスの勾配が残るという極めて急峻な地形だったことが分かります。

また、この沿線では良質な石灰や石炭を産出していたのですが、大変もろくて崩れやすい地形だったそうです。ソラントンネルはちょっと不思議な形状をしているように見えますが、これは崩れやすい地層帯を避けながらルートを決めたためです。


ソラントンネルのループ線の曲線半径が分かる資料が残念ながら見つかりませんでしたが、You Tubeにあった走行ビデオから計算してみると曲線半径1400m、輪の大きさはおよそ8.8kmと推定されます。

設計速度は150km/hですが、実際の営業運転では85㎞/hぐらいで使用されているようです。また一周8.8㎞のループ線は現在世界最大で、しかも線路規格が最高ランクです。ソラントンネルは2017年時点で世界最新・世界最大・世界最高規格の三冠を持っていることになります。


ソラントンネルの通過動画です。道渓駅から東栢山駅までを3倍速で撮影しています。
2分23秒のソラン信号場あたりから4分30秒ぐらいまでがループ線です。

ただし、全線がトンネル内ですので眺望はまったく期待できませんし、線路同士の立体交差点も乗車中にはまったく分かりません。極論するとただの長いトンネルです。

鉄道趣味的に新線のループトンネルと旧線のスィッチバックとどちらがよいか、と言われると難しいですね。ループ線マニア的にも、最新はともかく、最大最高の2つは参考記録にしておくべきかちょっと悩ましいところです。とは言え一般旅客にとっては嶺東線の旅客列車は軒並み20分程度所要時間が短縮されていますので、やはりソラントンネルのメリットは大きいです。

現在、ソラントンネルには夜行列車を含めて9往復の旅客列車が走っています。ソウルから5時間弱かかりますが、日帰りもできなくはありません。


  • 観光施設として引き続き活躍中

せっかくですので韓国随一の鉄道名所として有名だった旧線の二段スィッチバックも少しご紹介しておきましょう。

旧線では海側から登ってきた列車はナハムジョン駅とフンジョン駅で二回スィッチバックしていたことは上述のとおりです。両駅とも駅を出るといきなり30‰勾配が始まるという凶悪な線形で、しかもここを通る列車は後退運転の苦手な機関車牽引の列車ばかりでした。

フンジョン駅から旧線のスィッチバックを下っていく貨物列車
推進運転中なので機関車が最後尾です
こちらからお借りしました
ここの特徴はナハムジョン・フンジョンが両方とも日本でいうところの停車場扱いだったことです。現存している日本のJRのZ型スィッチバックはすべて最初の折り返しから最後の折り返しまでが一つの停車場扱いになっています。つまり列車がすれ違えるのはスィッチバック全体で1回だけです。

ところがここの場合、下段のナハムジョン駅ですれ違って、さらに上段のフンジョン駅ですれ違うというダブル待避が可能でした。これは両者が別の駅とされていたからこそできたことでした。

両者の駅間は1.5kmしかありませんでしたが、輸送需要の増加に対応するために1990年代にフンジョン駅を停車場に格上げしたそうです。詳細は分かりませんでしたが、それまではおそらくフンジョン駅はナハムジョン駅の構内だったのではないかと思います。


スィッチバック推進運転中の客車からの前面展望
見張り員さんを差し置いてどうやって撮影したんでしょうね
ナハムジョン・フンジョン両駅で貨物列車と連続交換しているところにも注目です
機関車が最後尾になるスィッチバック区間中では先頭に見張り員が乗車し、信号を確認して無線機で機関士に指示を出す運転をしていたそうです。こちらのページに詳しく出ています →東アジア鉄道イソウロウ事務所

嶺東線のスィッチバックは韓国の鉄道名所として鉄道ファンに愛され、日本からわざわざ乗りに行った方も多数いました。WEB上で検索するとたくさん現地レポートが見つかります。

旧線は現在韓国鉄道施設公団が運営する鉄道記念鉄道公園チューチューレールパークとなっています。スィッチバック設備も残されていて観光列車が走っています。またチューチューレールパークでは昔のインクラインも復元されていて、レールバイク(足こぎトロッコ)で旧線を走り降りてくることができるそうです。これは結構楽しそうです。




次回はアメリカのループ線をもう一カ所ご紹介します。

2017/07/23

欧州㉕フロム鉄道 世界最北のループ線が持つもう一つの世界一

  • あくまで脇役だったループ線
今回は北欧ノルウェーのループ線をご紹介します。

ノルウェーでは首都オスロから十字に幹線鉄道が走っています。そのうち西へ向かうのがベルゲン鉄道です。フロム鉄道はベルゲン鉄道の途中のミュルダール駅から分岐してソグネフィヨルドのそばのフロム駅までを結んでいます。

ノルウェー語のFlåmsbana,Bergensbanaをそのまま和訳してフロム鉄道、ベルゲン鉄道としている旅行ガイド等があって、私鉄の路線のように思えますが、どちらもノルウェー国鉄の一路線です。フロム線、ベルゲン線と書いた方がニュアンス的には実態に近いと思うのですが、公式ページ(→こちら)もフロム鉄道となっているので、当ブログの表記はそれに従っています。ゴッタルドバーンでもそうでしたが、このゲルマン語系のバーンという単語は和訳する時に混乱しやすいですね。

ミュルダールとベルゲンの間は標高1230mのフィンセ峠があります
フロム鉄道はベルゲン鉄道からソグネフィヨルドまでの接続線として計画され、1924年から工事が始まりました。かなりの難工事だったようで、開業したのは第二次大戦中の1941年です。

もともとフィヨルドが発達したノルウェー海岸部は大量輸送と言えば船舶による水運でした。フロム線はソグネフィヨルドの沿岸とオスロを結ぶという観点でルート選定されており、特にフロムの町に何かがあったわけではありません。極論すれば目的地はフロムでなくてもよかったということになります。

フロムの町は現在でも人口350人で、鉄道の開通によって港湾が劇的に発展した形跡もありません。その成り立ちから言って、フロム鉄道はあくまでベルゲン鉄道と水運の補助役でした。

ミュルダール駅の遠景。左奥の傾いたトンネルがフロム鉄道です。
写真はオスロ行の特急列車。こちらからお借りしました

それでも通年通行可能な輸送機関によってフィヨルド沿岸と主要都市が結ばれたのは大きく、旅客列車と貨物列車が1日2往復ずつ走り出しました。

1945年には電化が完成し、電気機関車の牽引に置きかえられます。鉄道は観光需要を掘り起こし、1970年代までは輸送量は右肩上がりだったそうです。

ところが1980年代に入ると観光需要が頭打ちになります。フェリーと接続してフィヨルド沿岸の町への郵便や日用品の物流に使用されていた貨物輸送も徐々に整備された道路輸送に置き換えられて行き、フロム鉄道は経営的にピンチを迎えます。ちょうど電気機関車などの車両が更新時期にさしかかっていたのも大きな負担でした。

この時ノルウェー国鉄はフロム鉄道を観光資源としてPR強化することで乗り切りました。同時にそれまで全国一律だった鉄道料金に割増運賃を設定したのも大きかったようです。現在では年間70万人の観光客を運ぶノルウェーの国家的観光スポットになっています。

  • 氷河地形に真っ向勝負で挑む
さて、フロム鉄道は海抜0mのフロムの町と海抜866mのミュルダール駅間を約20kmで結んでおり、最急勾配55‰、標準勾配28‰のハードな登山鉄道です。

特にU字谷の最奥部にあたるミュルダール駅近辺は四方が切り立った崖にへばりつくルートで、高度を稼ぐために相当苦心した様子がうかがえます。

もともと鉄道が苦手とする氷河地形のU字谷に、正面から挑んだなんともアツい鉄道です。最終的には通常の粘着鉄道となりましたが、当然ラック式も検討したようです。トンネルはほとんど手掘りだそうです。

ループ線の構造も思い切り特殊で、狭い土地にヘアピンターンを5ヶ所無理にはめ込むために、やむなく線路を交差した感じになっています。乗っているだけではループ線と気が付きにくい線形かもしれません。

勾配は上にも書いた通り55‰、曲線半径は130m、高低差はこの区間だけで100mです。最高速度は上りミュルダール行き40km/h、下りフロム行き30km/hで、時刻表をよく見ると下り列車の方が上り列車よりも少しずつ所要時間が長くなっています。

フロム鉄道は世界最高緯度、つまり世界最北のループ線でもあります。

アラスカ鉄道ザ・ループの方が北にあるイメージが個人的にありましたが、調べてみるとぎりぎりフロム鉄道の方が北でした(アラスカ鉄道ザ・ループ:北緯60度39分35秒、フロム鉄道:北緯60度44分36秒)。

北緯60度を超える地域では鉄道路線自体が希少ですが、その中でもループ線の存在はひときわ目立ちます。ちなみにシベリア鉄道の本線は最北部でも北緯58度で、北緯60度を超えるところは走っていません。


  • 値段なりの価値があればそれでいい

現在フロム鉄道は夏季は日中ほぼ毎時1本ずつ1日10往復、冬季は1日4往復の列車が運行されています。以前はオスロから直通の夜行列車が走っていましたが、現在はすべてミュルダール・フロム間の線内往復列車です。

料金はミュルダール・フロム間20km約1時間で片道360クローネ=4800円、往復480クローネ=6300円とかなり割高です。というかこれは世界的に見ても相当高い鉄道運賃だと思います。

ヴァトナハルセン駅。駅に隣接してホテルがあります。
一応ユーレイルパス所持者向けに30%の割引がありますが、逆に言うとユーレイルパスを持っていても別料金を払わなければ乗れないということです。単位乗車時間あたりの料金は日本の新幹線並みのハイリッチな鉄道です。

一般鉄道のループ線としては世界最高の運賃設定だと思います。ちょっと調べきれませんでしたが、観光鉄道を含めてもおそらく世界最高額ではないでしょうか。フィヨルド観光用にバスやフェリーとセットになった周遊券も発売されていますが、日本円で30,000円近い価格設定となっており、正直得なのかどうか判断しづらいです。少なくとも安くはないです。

それでもフロム鉄道はノルウェー観光のド定番コースとなっていて、日本人の旅行記もWEB上に多数見つかりますが、値段が高いという指摘はほとんどありません。現時点で不満が出ていないということは値段なりの価値は認められているということでしょう。

ノルウェーの鉄道路線はフロム鉄道に限らず、海と森と山のコントラストの中を走る風光明媚な路線が多く、一度ゆっくり訪れてみたいところです。







次回は韓国のループ線をご紹介します。

2017/07/12

中国⑪浜州線興安嶺ループ 20世紀を駆け抜けた多国籍ループ線


  • その時歴史は動いた

今回は中国東北部、旧満州にあったループ線をご紹介します。

中国領土内にロシアが鉄道を建設した経緯は大変複雑です。このあたりは専門外なのでごく大雑把にまとめると、日清戦争終了後に日本が遼東半島を中国から割譲されましたが(1894年下関条約)、ロシア・フランス・ドイツの三国がこれに介入し、日本は遼東半島の獲得を断念します(1895年三国干渉)。

遼東半島獲得断念の見返りに清朝はロシアに対して満州の鉄道敷設権を与えます(1896年露清密約)。この鉄道敷設権に基づいて、中露国境の満州里から満州を斜めに横切ってウラジオストクの北東の綏芬河まで、全長1500kmの東清鉄道(East China Railway)が建設されました。

1898年から工事が始まり、1904年に開通しています。地図で見るとシベリアの中心都市の一つチタからウラジオストクに向けて、一直線に線路を引いたのがよく分かります。

実はこの鉄道敷設権というのが曲者でした。取り決めにより、鉄道用地が実質ロシア領になったに等しかったのはまだ理解できますが、それに加えて鉄道関係者の生活に必要な土地もすべて鉄道用地と拡大解釈されていきます。

鉄道車両の車庫用地はもとより駅や鉄道関係者の住宅・学校・病院・商店、関係者居住域の警察や軍隊、はては鉄道燃料用の鉱山までなんでもかんでも鉄道用地扱いされ、結局駅や鉱山のある町はまるごとロシア領になったようなものでした。

実態は植民地化されたのと何も変わりません。このような実質植民地の鉄道用地は鉄道附属地と呼ばれ、ロシアをまねて各国が清朝領内に続々と鉄道敷設権を獲得して鉄道附属地が広がって行ってしまいました。詳しくは→こちら

これにはさすがに住民の不満が高まり、義和団の乱(1900年)から辛亥革命(1911年)へと進んでいき、中国の王朝政治の終焉を見ることになります。また、日本ではこの時のロシアの狡猾な立ち回りが不信感を呼び、日露戦争(1904年)の原因の一つとなります。

このように東清鉄道はいろいろ国際政治に波紋を起こすものでした。振り返って見ると三国干渉に基づく鉄道敷設権付与は日露戦争から第二次大戦までの要因にもなっています。

  • ロシア人が作り、日本人が育て、中国人が使う
ロシア時代の線路図
点線は工事中の仮線で3段スィッチバックでした。
本線完成後は撤去されたそうです
ところで満州の地形はおおむね平らな平原なのですが、中央部に大興安嶺山脈が横たわっています。

この山脈よりもロシア側は標高600m程度、中国側は標高200mと高低差がありました。東清鉄道は満州里(チタ)側と綏芬河(ウラジオストク)側の両方から建設が進みましたが、最後まで残ったのがこの大興安嶺を超える部分でした。

東清鉄道はこの興安嶺山脈の高低差を全長3100mの興安嶺トンネルとループ線で越えました。これが興安嶺ループ線です。ロシア語では土木技術者の名前を取ってボチャロフ・スパイラルと呼ばれていました。

開通時のループ線の様子。これは絵でしょうか。
ちょっと山と線路のバランスがおかしいように見えます
こちらからお借りしました
曲線半径は320メートル、高低差は100m、勾配は約15‰です。開通当初はロシア規格の1520mmゲージで建設されています。

このロシア製ループ線は1904年の開通後も数奇な運命をたどります。開通してすぐに日露戦争が勃発し、ロシアが敗北します。

ハルビンから長春を通って大連・旅順へ向かう南満州支線はこの時ロシアから日本に譲渡されて南満州鉄道、通称満鉄となりますが、この満州里~綏芬河間の路線はロシアの鉄道として残り、北満鉄道と呼ばれることになります。

ループの交差部
警備兵用のトーチカが残されているのがロシア製の名残です。
この際、鉄道附属地も管理権ごと満鉄に譲渡されたため、実質日本の植民地となりました。この時代の歴史でよく出てくる関東軍とは、もともと満鉄の鉄道附属地の守備隊です。鉄道会社の社員が行政権を握った町がいくつもあったという不思議な時代でした。

その状態で30年ほど経過し、ロシアがソヴィエト連邦になり、清が中華民国となった1931年に満州事変が勃発し満州帝国が成立すると、1935年北満鉄道はロシアから満州帝国に有償譲渡されて満州国鉄になります。ちなみにこの時の有償譲渡の交渉にあたったのは杉原千畝だったそうです。

現在のループ線の様子
交差部の上部は新南溝信号場で行き違い設備があったようです
 
わざわざ勾配上に行き違い線を作った理由は分かりません。不思議です
1937年には満鉄に合わせて標準軌に改軌します。急激に改軌したため、標準軌用の機関車と貨車が極端に不足する事態となったそうです。

有償譲渡されてから第二次大戦終戦までは日本人経営の満州国鉄の路線だったのですが、終戦後はソ連と中国(国民党政府の中華民国)の共同経営路線となります。

最終的に中華人民共和国成立によりソ連は満州鉄道経営から手を引き、1952年に完全に中国国鉄の運営となりました。

この興安嶺ループはロシア人運営の東清鉄道、日本人運営の満州国鉄、中国人運営の中国国鉄と3つの異なる民族により運営されたことになります。このように相互乗り入れではなくて三カ国の列車が走ったのは世界のループ線の中でここだけです。


  • マニアだけが知るその価値とは

さて、この興安嶺ループ、非常に国際政治に影響を与え、国際政治の影響を受けたループ線だったのは上述のとおりなのですが、ループ線としても超一級のものでした。

こちらは中国時代の線路図
残念ながら満鉄時代のものは軍事機密だったからか
敗戦時に散逸したのか見つかりません

写真で分かる通り、興安嶺ループは地平から築堤で人工的に高度を上げていく非常に珍しいオープンループでした。スイス・ベルニナ線のブルージオと同じ成り立ちで見た目もよく似ていますが、幹線用の高規格で比較にならないほど大規模なものでした。

ループ線の途中には新南溝信号場があり、行き違いができるようにもなっていました。また、自線と交差した後も円の外周に沿ってさらに半回転する1回転半ループだったのもポイントです。

東洋のブルージオと言える素晴らしい形状で、知名度が少ないのは不当だとも言えるほどです。

むしろ興安嶺ループの方が規模も大きく開通も早いので、ブルージオの方を「スイスの興安嶺」と呼ぶべきだったかもしれません。


  • 大地にたたずむ歴史の生き証人

興安嶺ループは中国国鉄として戦後も満州開発、中ソ国際輸送を支えていましたが、中国の鉄道近代化施策の一環で2007年に160km対応の新線に切り替えられ、残念ながら廃止されました。





旧線となったループ線は、興安嶺トンネルや博克図機関庫とともに内モンゴルの文物保護単位(日本でいう重要文化財)に指定されています。

観光鉄道を走らせる計画もあったようですが、今のところ具体的な動きはありません。一応線路も含めて構造物は一通り残されています。




ある意味世界史をも動かした偉大なループ線の遺構は、現在は満州の地でひっそりと余生をすごしています。

次回は北欧のループ線をご紹介します。

2017/07/03

アフリカ④南アフリカ・ヴァンレーネン峠 希少なスイッチバックからの改修ループ線

  • 欧州人同士の激しい領土争奪戦
今回は南アフリカ共和国の東部にあるループ線をご紹介します。

南アフリカはアフリカでは最も気候が温暖で、早くからヨーロッパ人の入植が進みました。最初に喜望峰の近くに町を作ったのは1700年ごろオランダ人でしたが、1800年代初頭にイギリス人が進出してケープタウンはイギリス領となりました。この時既に入植してから数世代経過していたオランダ系の住民は、イギリス人に支配されることを嫌って集団移住(グレート・トレック)でアフリカ大陸を北上していきます。

オランダ系の住民はインド洋沿岸の港町ダーバンを中心にナタール共和国を建国しますが、ここはすぐに占領されてイギリス領になってしまいます。

オランダ系住民はさらに北の内陸部に向かって移動し、1850年代の中ごろにオレンジ自由国と現在のヨハネスブルグ一帯のトランスバール共和国を建国します。簡単に言うと原住民そっちのけのオランダとイギリスの領土の取り合いですね。

オランダ系の住民は黒人奴隷を使いながら農牧で地道に暮らしていたのですが、1886年にヨハネスブルグで金鉱が発見されます。すると一気にヒートアップ、有象無象の集まるゴールド・ラッシュがここでも発生します。同時に再びイギリスがオランダ系住民の領土を侵略してくることになります。鉄道が建設されたのもこの金鉱の積み出し用でした。

ところで、南アフリカの東海岸にはドラケンスバーグ山脈という南北約1000㎞にわたる山脈が横たわっており、内陸部へ向かうにはどこかで山脈を越えなければいけません。

現在のヴァンレーネン駅の風景。北海道っぽいです。
ダーバンからヨハネスブルグに向けて、ドラケンスバーグ山脈を越える鉄道が2つのルートで建設されました。そのうちの南側のルート、レソト国境に近い方を通るのが今回ご紹介するヴァンレーネン峠です。

峠と言っても極端な片勾配で、峠の東側は断崖絶壁ですが、西側は国境を越えてナミビアまでほとんど高低差のない標高1600mぐらいの台地になっています。強烈な上り坂はあるが下り坂はほとんどないという変わった地形になっており、英語では"大断崖"Great Escarpmentと呼ばれています。

  • スィッチバックがループ線に大変身
ヴァンレーネン峠の鉄道はナタール政府鉄道Natal Government Railwayによって1892年に開業しました。軌間はケープゲージと呼ばれた日本と同じ1067mmゲージです。

レディースミスから分岐して北西へ行くとヴァンレーネン峠です。
この地図ではまだ三段スィッチバックになっています。
峠の頂上部にヴァンレーネン村ができていましたが、ここまでがナタール植民地=イギリス領でした。峠の西側はオランダ系のオレンジ自由国領だったのですが、国境から先も終点のハリースミスまでナタール政府鉄道が建設しています。敵対している国の領土内まで鉄道を建設してしまうとはイギリス人は大胆ですよね。

ヴァンレーネンは一帯の地主さんの名前で、それがそのまま峠の名称になっています。ちなみにここまで出てきたダーバン、ハリースミス、レディスミス、ヨハネスブルグなどの南アフリカの都市名も、もとは人名だそうです。

三段スィッチバック時代の峠の風景
こちらからお借りしました
当初はトンネル掘削技術がなかったため、標高1700mの峠を3段スィッチバックで越えるルートが採用されました。

このスィッチバックによる峠越え路線は大変見晴らしが良く、一躍遠くヨーロッパまで伝わる鉄道名所となりました。

ところが蒸気機関車での鉱石輸送と逆転運転を伴うスィッチバックとの相性が非常に悪く、輸送量が増えるにつれて使いづらくなっていきます。

1902年のイギリスとオランダ系住民の間で勃発した第二次ボーア戦争の結果、オレンジ自由国・トランスバール共和国両国が実質的にイギリス領に併合されて国際路線ではなくなり、輸送需要も激増していました。

結局、1925年に第一スィッチバックと第三スィッチバックをトンネルで直結し、逆転運転の必要がないように改修されました。三段スィッチバック時代はここに終焉を迎えます。

これも三段スィッチバック時代。
おそらく三段目の写真だと思います。
しかし、この直結トンネルは急曲線かつ33‰の急勾配となり、蒸気機関車にはあまりに過酷でした。最終的には、1963年の電化工事に合わせて延長16㎞、20‰勾配の新線に抜本的に付け替えられました。これが現在のヴァンレーネン峠のループ線です。実はかなり新しいループ線です。曲線半径は280mとそこそこですが、重量鉱石輸送用に強化軌道が敷かれていました。

スィッチバック時代よりもトンネルが増えましたが、依然としてアフリカの大平原を見下ろす絶好の車窓区間となっています。また、旧線はほぼ全区間が道路に転用されています。You Tube に旧線の動画がありました →こちら

付け替え後の新線の風景。軌道状態も良好のようです。
こちらからお借りしました

ループ線マニア的には、やはり「スィッチバックからループ線に付け替えられた」という点が注目ポイントでしょう。

スィッチバックからループ線に付け替えれたのは、世界でここだけ!と言いたかったのですが、2012年に韓国の嶺東線のスィッチバックがソラントンネルのループ線に付替えられており、現在では該当箇所は2ヶ所になっています。ちょっとだけレア度が下がってしまっています。


  • 豪華列車で越えてみたい
現在ヴァンレーネン峠を走る旅客列車はシーズン中に週1往復運転されています。季節が日本と逆ですので2017年6月現在はシーズンオフで運休中です。ショショローザ・メイル社という南アフリカ鉄道公社の子会社が運行している列車で、こちらのページでチェックできます。

ところが2016年シーズンは、残念ながら上下便とも夜間にヴァンレーネン峠を通過するダイヤになっていてループ線見物には使えないものでした。2017年シーズンはどうなるでしょうか。注目です。
※2017年シーズンでは列車自体がなかったことになっています。廃止されちゃったんでしょうか?2017.10.1追記

また、クルーズトレイン専門の鉄道会社ロヴォスレール社のツアーの中に、ヴァンレーネン峠を通るものがいくつかあります。これは最近日本でも走り出した「ななつぼし」や「四季島」といったクルーズトレインのモデルとなった豪華列車ツアーで、南アフリカでは戦前からこのようなクルーズトレインが存在していました。公式ページは→こちら。ちょっと乗ってみたくなりますね。チャーターもできますので、お金さえ払えば確実に豪華列車でループ線を通過できそうです。

南アフリカ、特にヨハネスブルグと言えば世界最悪といわれる治安の悪い都市というイメージがありますが、列車に乗っている限りは安全だそうです。



今回の地図はルートの変遷が分かるように、チェックボックスで年代別に切り替えられるようにしてみました。

次回は中国のループ線をご紹介します。